言葉(ロゴス)の意味の重さについて
西高宮小学校から集団下校する子どもたちの元気な声が、私の書斎までよく聞こえてくる。いつもは静かな住宅街が、この時だけは弾むような彼らの声で、しばし華やぐことになる。先日、その声を聞くともなく聞いていると、明らかに上級生と思われる男子生徒の、「彼の存在そのものがそうなんだよ」という声がはっきりと聴き取れて、思わず唸った。
「彼」に対する否定的な意見だったのか、肯定的なそれだったのかは、判別できなかったが、7月1日に集団的自衛権の行使を認めるという「解釈改憲」を閣議決定した首相に対しての憤りの念を、うまく処理できずにきた私は、ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』を思い出しながら、「そうなんだよ、彼の存在そのものが、あまりにも軽すぎるんだよ」と、独り言ちてしまった。
首相の閣議決定後の記者会見での、「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなりました」という発言には、「何をこの期に及んで」と、耳を疑いたくなる「軽さ」を感じざるを得なかったからだ。そしてそれはまた、歴代内閣が厳しく禁じてきた海外派兵を、限定的とは言え「できる」ようにしてしまった大転換にもかかわらず、「憲法解釈の基本は変えていない」と強弁する「軽さ」でもある。首相がよく引き合いに出す、「日米安保条約を結んだりしたら日本は戦争に巻き込まれると主張した人たちがいましたが、そんなことは一度もなかったじゃありませんか」という論法にしても、それは憲法9条の厳格な解釈があったからこそなのであって、それの「骨抜き」を企む者が口にできる言葉ではないはずである。何よりも言葉(ロゴス)のもつ意味の重さを破壊してしまった首相として、彼は日本の歴史に名を刻んだことになるだろうと私は思う。
基本的な重要性においてキリスト教信仰に深く通底している憲法9条の、 解釈によるこの改変に対しては、今後私たちは、主として選挙をとおして明確な「否」を言い続けていきたい。「憲法改正」とは、本来は「国民投票」によってしか、しかも3分の2の賛成という高いハードルを超えることによってしか、なすことのできないはずのものだからである。つまり「改憲」とはそれほどに重いことがらなのである。そして実際、一年程前までの首相自身もまた、そのハードルを2分の1にまで下げようと、まるで物事のルールを自分の思いどおりに変えようとする駄々っ子のようにして、企んでいたではないか。しかし民意はそこにないと看て取るや否や、今回のような暴挙に彼は出たのだから、それへの「否」を、私たちはまさにその「投票」という行為によって、はっきりと意思表示し続けていかなければならないと思う。
青野師