平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2011年2月27日 インターネットの功罪

2011年03月27日 22時13分18秒 | Weblog
    インターネットの功罪

 革命がインターネットの力によって、成功する時代になった。言論の自由を奪うことで、独裁支配体制を維持してきた国々が、言論統制が不可能になった時点で、崩壊するケースが増えてきた。軍事政権は、武力でもって、支配しようとする。そもそも言論の自由を許すことで、崩壊するような体制は、それだけのものでしかないのだろう。
 しかし、世界には、言論の自由を許さず、武力で弾圧して、何とか政権を維持している国がある。インターネットの発達は、民衆の横の団結を可能にしている。目に見えないところで、いろいろな情報のやり取りが行われ、あっという間に、抗議集会が可能となる。一旦、火のついた民衆の感情は、さらに大きな集会や力となって、政権を打ち倒すことになる。
 インターネットが発達したおかげで、血の通ったコミュニケーションがとれない時代になってきたと嘆く人もいるが、社会の状況によっては、その悲惨さや矛盾を解決へと導く非常に大きな手段にもなりうることがわかってきた。どのような局面で、何の目的のために、情報を得ようとするのか、情報交換を行おうとするのか。
 たわいもない夢幻の世界から、重要で真実な世界まで、このインターネットという道具は、人が人として育っていくのを助けてくれるのか、ただの情報依存症にしてしまうのか。信仰者も、神様との関係について苦悩することを放棄し、インターネットによる情報を答えと勘違いするようになるかもしれない。

2011年2月20日 大名と平尾の二箇所をどうつなぐか

2011年03月27日 22時08分25秒 | Weblog
 大名と平尾の二箇所をどうつなぐか

 教会の理想は、全年齢層の人々がいること、健康な人、病人、あらゆる立場のあらゆる人々がいることである。全員が、手だけでも困る。それぞれが体の一部であり、それぞれの働きを担っていることが大事である。大名が、若者をターゲットにしているからといって、若者だけの群れになることは、教会の理想に反する。大名に来た若者たちは、平尾の教会の群れの中で教会という所を知ってもらいたい。
 それには、平尾でなされている礼拝にも出席してもらうように、プログラムを作ること。合同のイベント、プログラムも用意できたらいい。しばらくの間は、平尾教会の者たちが、大名で奉仕をする。集会の中での奉仕、事務室の受付的な仕事から、清掃などもあるだろう。
 或いは、参加して集会を支えることも考えられる。大名と平尾を行ったり来たりしながら、何かが生み出されていくことだろう。そして、この行ったり来たりが、教会の呼吸のようになって、活気を作り出すことだろう。私たちの目指す教会は、二つで一つだから、奉仕の幅と種類も増えるし、群れ自体の広がりも生まれるだろう。
 神様は、私たちを溢れんばかりの愛をもって創造された。一人ひとりがその愛に応えることを神様は求めておられる。そのために教会は、多くの人を教会に招き入れ、共に礼拝し、キリストに導き、訓練し、福音を伝える者として派遣する。二つで一つの教会になっても、その基本的な営みに変わりはない。


平良師

2011年2月13日 役者

2011年03月27日 21時48分21秒 | Weblog
        役者

 もしもイエスさまが、ご自身が死後三日目に復活されることをご存じの上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架上で絶叫されたとすると、それはすべてのシナリオを知っていて演技をしている「役者」のすることではないか、そしてさらに、イエスさまの最後の絶叫をそのように理解することは、ギリシア語で「役者」を意味するhypokritesが英語の「偽善者」を意味するhypocriteの原語であることが示しているように、まさにイエスさまを「偽善者」にしてしまうことになるのではないか、ということを私は言い続けてきた。
 映画が最大の娯楽だった時代の、文字通りの大女優・高峰秀子さんが昨年暮れに86歳で亡くなった。私が中学2年生だった1956年に、映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケで静岡県の御前崎に来ていた彼女は、私が生まれ育った隣町の浜岡の旅館に宿泊していたが、礼儀正しく謙虚で凛とした彼女の立ち居振る舞いと、彼女が書き残していった達筆の文字のことは、当時町中の評判になったことを想い起こす。
 その彼女にとっては、本当の自分と映画の中の「虚像」との間には、終始厳しい葛藤があって、「虚像と実像は仲が悪い」と常々言っていたそうだ。名優とはその役柄になりきれる人という解釈もあろうかと思うが、彼女の場合には、その間(はざま)で人知れず格闘する誠実さが、隠し味のような魅力であった、と新聞は伝えていた。そして作家沢木耕太郎さんは「高峰秀子にとっての真の作品とは『高峰秀子』だったのではあるまいか」と評している。
 そうか、役者でもそういう人はいるのか。いわんや、イエスさまは「役者」ではなかったのだから、そのお言葉を「役者」の台詞(せりふ)のように理解したりすることは、決してしてはならないであろう。


青野師

2011年1月30日 大名町での布教について

2011年03月27日 21時40分25秒 | Weblog
    大名町での布教について

 今年は、平尾バプテスト教会が、いよいよ大名の地に導かれて新しい宣教のわざが始まります。敬愛する平尾教会の兄弟姉妹が心を一つにして、神の良しとされる道を歩むことになります。福岡国際キリスト教会との交わりにも配慮しつつ、よい協力関係を保っていくことが望まれます。九州バプテスト神学校の運営も順調に進み、また福岡地方連合にも役立つことが期待されています。
 若い青少年たちの希望と信仰の育成に期する所が必要であることはいうまでもありませんが、同時に高齢者方のためにも豊かに利用できることが要求されるでしょう。
 平尾教会の会員の方々には様様なタレントをお持ちの方が多いので、時間的制約はあるにしても、それぞれ深い信仰をもち奉仕に熱心であり、きっとよい活動が期待できると信じています。会員のみなさんと手をとりあって、荒野の道を歩むことになりますが、祈り合い、支え合い、これまで以上にお互いくだけた心をもって交わりを深めて前進したいものです。
 お気づきの点、不平、不満なことがありましたなら、何一つ遠慮なさらず、御意見、お考えを出して下さいますよう心からお願いいたします。


松村師

2011年1月23日 主から与えられた使命は

2011年03月27日 17時03分27秒 | Weblog
    主から与えられた使命は

 神様からの使命は、人それぞれに与えられる。それは、当然のことながらキリストの教会の群にも与えられる。私には、DCC設立は、まさに神様から与えられた使命だと理解している。なぜなら、このヴィジョンは、私たちがこの平尾で考えてきたことの延長線上にあると思えるからだ。
 使命だと捉えた以上、このヴィジョン実現に向って歩むことが神様への誠実だと信じている。これから建物の建築、あちらでの活動内容の具体的な検討に入る。私たちは、一人でも多くの地域の方々に、福音の種蒔きをして、イエス・キリストにある命に与っていただきたいと思う。
 ところで、今年の冬の寒さは、この10年の中では一番ではないだろうか。これもまた異常気象ということか。しかし、私たちは、この寒さをストーブを焚き、エアコンをつけて凌いでいる。対応する道は、それぞれにある。厚着をしている方もいる。カイロを持っている人もいる。この寒さの中、私たちの体を衰えさせる要因は、多伎にわたってあるのだが、それに対応する道もいくらでもある。
 問題は、私たちが、無用心になることだ。何の備えもなければ、私たちは、風邪をひき、肺炎になるかもしれない。これからDCC設立については、幾つかの課題があり心萎えることもあるだろう。私たちは、心のうちに暖炉のような暖かな火を、周囲を明るく照らす炎を持っていよう。備えの一番は、神様からの燃え尽きることのない伝道の炎をいただくことだ。


平良師

2011年1月16日 罪について

2011年03月27日 17時03分27秒 | Weblog
      罪について

 今日、Mさんとバプテスマの準備クラスをしながら、創世記の三章は、罪とはいったい何なのかを見事に描いているとつくづくと思った。罪には、誘惑がつきものである。この誘惑は、その人の弱点やすきをよくついてくる。私たちが、そうであったらいいなあ、こうありたいなあ、うまいだろうなあ、気持ちいいだろうなあ、そのような欲に上手にのっかってきて、それならこれがありますよ、と誘惑の手を伸ばしてくる。
 意識していない欲をくすぐられることもある。この誘惑の魔の手の最終的な目的は、人の滅びである。神様と離れさせることを目的としている。神様への信頼を喪失させることを目的としている。神様に背を向けて歩ませることを目的としている。罪を犯している者は、神様から自分の身を隠そうとする。
 罪を犯している者は、自分を何とか正当化しようとする。自分が悪いのでなく、あの人が悪いからこうなったのだと言う。さらに、神様あなたが悪いのではないですか、とまで言う始末だ。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。誰もが、こんなセリフを言ってみたい衝動に駆られることがあるだろう。私が悪いんじゃないのだ、と。
 罪を犯さない人は誰もいないと、聖書は私たちに教えている。しかし、意外と多くの人々が、自分の罪には気づかないでいる。救われるべき人々が、99%もこの国にはいるのだ。やるべきことがたくさんある。


平良師

2011年1月9日 二箇所で一つの教会形成とは

2011年03月27日 16時54分31秒 | Weblog
   二箇所で一つの教会形成とは

 平尾と大名の二箇所で一つの教会を形成していくために、どのようなことが考えられるだろうか。礼拝をはじめ活動する場所は、二箇所にまたがっているが、群れは一つでなければならない。そのためには、例えば、二箇所で行う礼拝のどちらかに出るのだが、一ケ月に一度は、普段平尾に出席している者は大名へ、大名に出席している者は、平尾へ出席をするようにする。
 また、その週の説教者は同一人物で、平尾と大名で同じ内容の説教をする。また、二箇所をつなぐ組織を考える必要がある。執事会の中に、大名スタッフ(もう一人の牧師が与えられるまでは信徒献身者も可)も含めて会議を行う。スモールグループの存在は、まさに二箇所をすぐにつなぐことのできる組織となるだろう。
 財政面から二箇所で一つの教会形成を考えると、二箇所の統合財政が、二箇所を支えうるに足るものでなければならない。そのためには、早い時点で、両者を合わせて、せめて現在の二倍くらいの教勢規模となることが求められる。行事もいくつかは合同で行っていく。例えば、総会、特別集会、餅つき、バザー、ハイキング、キャンプ、など。
 課題は、大名においては、少なくとも当初は対象者を若者やサラリーマン、子持ちの若い母親たちに絞る方向で活動を考えることになるから、年齢差のある人々同士、異なるテーマをもっている者同士、どのような形で、同じ群れの意識化を図っていくかの工夫が必要になってくるであろう。


平良師