平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2009年3月8日 溜息をつくなんて・・

2009年04月26日 15時09分11秒 | Weblog
     溜息をつくなんて・・

 溜息が出る。「あ~あ」。日に何度も出ることがある。自分の不甲斐なさを嘆くときもそうだが、他の方々の負っている事柄の重さを思って出るときもある。妻から、どうしてそんなに溜息ばかりつくのかと尋ねられるが、いろいろなことを思って、無意識のうちにふと出るようだ。

 溜息をつくのは、不信仰の証拠、そう思う。そんなことを思って、また「あ?あ」だ。溜息というのは、落胆、失望、ストレス、そのような感情の吐露。この大不況のなか、溜息をつく人々が増えているのではないか。あちこちから、溜息がもれてくるようだ。

 パウロは、いつも喜んでいなさい、と奨めている。主にあって、喜んでいなさい、ということだ。私たちが負うべき、すべてのことを主が共に担ってくださるのだから、すべてのことは主にあって既に解決済みなのだから、元気を出せ、パウロは、そう私たちに奨めているのか。それとも、これもまた、逆説的に「貧しい者は幸いである」ということであろうか。そうだとも言えよう。

 今日、Hrt君がバプテスマを受けた。4月から小学生だ。輝かしい未来が待っている。その彼が、牧師が、溜息ばかりついているのを見たら、がっかりすることだろう。キリスト者は、溜息をついてはいけないという法律はないが、少なくとも牧師が溜息とは、ダメでしょう。そう言えば、かつて、教会を訪ねて来た方から、私を見て開口一番「何か牧師さんもお悩みですか」と聞かれたことがあった。あ?あ!


平良師

2009年3月1日 神様が示す道

2009年04月20日 12時50分29秒 | Weblog
     神様が示す道

 思いもしなかったことを神様は私たちに示す。私たちがこのままでいいと思っているのに、それ以上のことを、或いは、それ以下のことを示される。丁度いいのだから、このままでいきたいと思っても、神様の側には注文がある。

 もうちょっと働いてもらおうか、或いは、もう十分に苦しんだのだから、これからはうれしい事柄に与ってもらいたい。ときに、私たちにも、教会にも、大きなプレゼントをどうぞと手渡して、まだまだやれるよ、頑張ってね、と言われる。

 思わずうれしくなって、頑張ろうかなあ、といった気持ちになる。逆のこともある。さらに苦しい試練に遭って、神様は私のことが心配ではないのか、私がそんなに強い人間だと思われているのか、そう思ってしまう。

 私たちは、日々の生活で起こる大小のことに一喜一憂している。神様はすばらしいと言ったり、神様あんまりじゃありませんかと言ったりするのである。しかし、神様はいつも私たちと共に歩まれている。私たちの苦難を共に苦しまれている、それほどに愛の深いお方である。

 試練の多い方、苦難の続く方は、神様の愛がその方に集中しているのだと他者が言うことは許されない。ただ、その渦中にある者だけが、そのことを言いうる。2008年度も残すところあと1ケ月となった。まとめも必要であり、2009年度の新たなる歩みに向かっての準備もある。2009年度、私たちの教会は神様からどのような贈り物をいただくことになるだろうか。


平良師

2009年2月22日 反省・・違うか・・

2009年04月13日 00時14分05秒 | Weblog
     反省・・違うか・・

 かつて、懺悔の値打ちもないけれど・・という流行歌があった。私は、妻に心ない言葉を吐いて傷つけることがある。それでも、そんなに自分が悪かったのか、と自覚できず、そこまでのことかな、それほどまでに自分が悪かったのかな、と思う。こんなことを書いていると、またもや、反省が足りないと叱られそうだ。

 人は、どのような気持ちがあって、そんな言葉を吐いたのか、そこらの説明を聞けば、そういうことだったのかと理解や納得を得ることができると信じたい。そして、赦し、赦される関係が生まれると。確かに反省が足りない。しかし、全く聞く耳を持たないときというのは、その人がえらく傷つけられたのだ。他者が痛んでいるのに足を踏んでいる方は気づかないことが多い。私もある。

 しかし、人は皆同じであって、良いところ、悪いところ、優れたところ、劣るところ、ならしてしまえば同じだ。だから、誰それは特に優れているというような話を聞くと、そうでないところもあるに違いない、と天邪鬼になる。私の人間理解は、聖書からだ。モーセ、ダビデ、ペトロもパウロも、不信仰や失敗をしたことが聖書には記されている。

 だから、カトリックのように聖誰それといような呼び方は、私にはどうも違和感がある。人生の裏街道を歩いていた者が、あるとき崇高な歩みをすることもある。私のような職務にありながら、間違いばかりの人間もいる。ひょっとして、私は妻に弁解をしただけなのか。


平良師