平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2008年10月12日 何という活力

2008年10月19日 19時02分17秒 | Weblog
     何という活力

 活力というのは、「生きる力、エネルギー」だ。この休暇で、私は、好きな釣りにのめり込んだ。いったいどれだけやれるだろうか、もうたくさんといった気持ちになるまでやってみようと考えた。所詮は遊びに過ぎないと言うなかれ。計画を立て、実行に移そうと努力した、否、趣味だから正確には、本能の赴くままに動いてみた。

 くたくたになって家路につくと、妻が小言も言わず迎えてくれた。これが・・これが何よりもありがたかった。内心あきれていたのかも。三日間、やってみて、さすがに筋肉のあちらこちらがこわばり、痛い。しかし、なんとなく元気ではあるようだ。人は、よく遊び、よく学べと言う。また、遊ばないといい仕事はできないとも言う。

 教会がくださった休暇は、よい仕事を牧師にしてもらうために用意してくださっているものだろうから、そういった意味では、ありがたく頂戴して、思いっきり遊んでみようと思った。そうしていただいた活力は仕事に還元しよう。

 ところで、キリスト者の最高の活力は、どこからくるのだろうか。人は、趣味に興じて、リフレッシュすることからも得られるが、一番と言われたら、キリストとの真実な出会いである。この方のお姿がぼんやりしていると、活力は得られない。この方に確信をおきつつ、この方に聞き、この方に従う。イエス・キリストを信じ、つながって活力を得る。イエス様は「私を信じる者は、死んでも生きる」と言われた。何という活力。


平良師

2008年10月5日 安定さの源

2008年10月13日 11時44分00秒 | Weblog
      安定さの源

 最近の時代状況は、不安に満ちている。まず、個々人の生活が厳しくなり、安定さを欠くようになってきた。瀕死の国家財政は、税金の増大、福祉の切捨てとなって表れている。
 しかし、どのような中にあっても、揺るぎのないものが自分の中にあれば、何とか厳しい状況も乗り越えていけるのだと信仰者たちは考える。このような人々の存在に、国家はもっと感謝してもよいだろう。かといって、聖書にはキリスト者は、政治に無関心であれとの勧めもない。
 ところで、聖書の福音書に描かれている弟子たちは、いつも揺らいでいるように見える。嵐の中の小船に乗っていた弟子たち。イエス様が一緒にその船に乗っておられるのに、右往左往する弟子たちだった。そして、あげくの果てに「私たちがおぼれてもかまわないのですか」となかば、怒ったように言うのである。
 イエス様が真実にはどのようなお方なのかを知らなければ、私たちは状況に対していつもビクビクしていなければならないのである。麻生さんは、景気対策だと財政立て直しの基本を述べ、小沢さんは、現在、困っている人々に対しての処方箋を述べた。双方、次の選挙をにらんでの発言だったという。さすがに、二人とも国民のことを思っているのだと考えるお人好しはもういない。
 私たちの安定さはどこから得られるのだろうか。主は私たちを真実に愛され、いかなることがあろうとも、いつも一緒にいてくださると確信できること、これが安定さの源だ。


平良師

2008年9月28日 力も抜ける秋

2008年10月12日 15時11分36秒 | Weblog
      力も抜ける秋

 最近、力が今一つ出ない。いろいろな見通しも悪い。仕事がはかどらない。どこか悪いのではないか。私は、牧師になって具合が悪くて、礼拝を休んだことは一度もない。「先生はお元気ですねえ」と言われることがある。顔を見て「何か、お悩みでも」と言われることもある。人相、表情には自信はないが、これまで、体調の方はまあまあだった。

 それがこのところ、力がでない。でないというより、力が抜けている。妻が、先週、義姉からの電話で、このごろ私が体調が悪いと言っていると伝えたところ、「心配ない、心配ない、それは平良の血筋で、うちのもしょっちゅうもうお仕舞いではないか、と言っているわ、よほど病気になりたい兄弟なのね」と言われたらしい。幼い頃から臆病で、血を見たとたんに、「血が出たあ」と泣き叫んでいたのを思い出す。

 秋は、私にはあまりいい季節ではない、と前にも書いた。秋は、毎年毎年、よくない季節になっていく。食欲の秋、読書の秋、実りの秋と秋はいい季節と言われる。私には、衰えを感じさせられる秋、ちょっと寂しい暗い秋なのである。これから幾度、この秋を迎えたらいいのだろう。

 あああと受身の姿勢でこれからも行くのか、それともこの秋に向かって何かをやって撃って出るのか・・例えば、秋が好きになる何かである、秋よ早く来いと、待ち遠しくなる何かである。しかし、片隅でこんな声も聞こえる。力も抜ける秋、力みがとれていいんじゃない、それもまた恵み。


平良師

2008年9月21日 平尾教会のよいもの

2008年10月06日 23時21分22秒 | Weblog
    平尾教会のよいもの

 9月14、15日と南九州地方連合伝道研修会に夫婦で奉仕させていただいた。70名ほどの参加者だった。私は富士吉田と平尾での伝道の取り組みについて、お話させていただいた。

 一方は5万人の市での開拓伝道、もう一方は140万人の市の50年の歴史のある教会での伝道である。両者を比較させていただきながら、それぞれ条件や環境の異なる所で、どのようにそれぞれの教会が伝道を展開してきたかをお話させていただいた。妻は共同保育の内容を説明した。

 両方の教会に共通していることは、全年齢層の一つの礼拝である。そして、神様の恵みは二つの教会に豊かに降り注がれた。私は、平尾教会は、成熟した教会であると時折語ってきた。成熟の内容について、多くを語ることができるが、例を一つ挙げるとすれば、他者の悪口や非難めいた話、うわさ話などを慎んでおられる。このことは平尾教会の成熟度を証明するものであり、教会のエネルギーを常に前へ前へ、伝道へと向かわしめることにつながっている。

 これまで平尾教会は、多くの広がりと豊かさをいただいてきたが、一つには時代の要請に応えている礼拝のスタイルがあるかもしれない。しかし、それ以上に、それは平尾教会の会員の一人ひとりが、成熟しており、キリスト者本来の使命に生きてきたことによると私は考えている。教会の力と関心は、未だ救われぬ魂へと向かう。時が良くても悪くても福音を語り続けよとの使命に応える教会であり続けたい。

2008年9月14日 小説家小川国夫さんについて

2008年10月01日 23時11分15秒 | Weblog
   小説家小川国夫さんについて

 今年の四月に小説家の小川国夫さんが80歳で亡くなられた。小川さんは私と同じ静岡県の出身で、東大生であった1955年にバイクでイタリアやギリシアを旅行し、その時の体験を基にして書いた『アポロンの島』で日本の文壇に登場された方で、彼の文体の熱烈なファンは多かった。

 旧制静岡高校のときにカトリックの洗礼を受けられており、その作品にはキリスト者としての豊かな感性が至るところに見出される。終始郷里の藤枝に留まって執筆活動をなさったが、『逸民』(1986年)で川端康成文学賞を、『悲しみの港』(1994年)で伊藤整文学賞などを受けられた。亡くなられて一ヵ月後の今年の五月に、遺作随想集『虹よ消えるな』(講談社)が出版されたが、虚飾を削ぎ落とした澄明な文章は平易で読みやすく、私自身が育ったのと共通の風土の描写に満ちていることもあって、一気に読了させていただいた。

 その中では、私が生まれ育ち中学三年生までの日々を過ごした小さな町である浜岡についてもふれられている。浜岡は鳥取に次ぐ大砂丘で有名であるが、小川さんはその砂丘を描くために、1950年前後に友人と何回かそこに足を運ばれた。その時のスケッチを見て、友人は笑いながら、「小川君の描いた空からはキリストが現れそうだな」と言ったが、それに対して小川さんは「海からではないか。ある夜小舟が着いて、キリストがひっそりと上陸しそうな気がするが、と私は言いました」と書いておられる(78頁)。

 1950年前後と言えば私はまだ小学校二、三年生だったが、遠州灘に面したこの砂丘にはよく遊びに行っていたので、まだ町にキリスト教会ひとつなかったその頃に、小川さんのような信仰の大先輩がそこを何回も訪れて、私が泳ぎ戯れた海をキリストと関連づけておられたということに、深い感動を覚えた。西南学院大学のキリスト教強調週間の講師として大学に来てくださったときには、その文章そのままの静謐さを湛えた小川さんの謦咳(けいがい)に接することをゆるされて、私は大変嬉しく光栄に思った。

 小川さんと言えば、私にはもうひとつ別の思い出がある。小川さんが現在多くの教会で使用されるに至っている『新共同訳聖書』の日本語の監修者となるように依頼されたことは広く知られている。しかし新約聖書の多くの部分の日本語は、義理にも優れているとは言えないというのが私の持論である。

 そこで私はかつて『どう読むか、聖書』(朝日選書)を執筆したときに、その原稿に「小川国夫のような方が監修している日本語とはとても思えない」と書いたことがある。しかし朝日選書の編集委員は、「この文章だけはどうしても削ってください」と言って譲らず、それを採用してはくれなかった。それは「小川国夫」という名前のもつ重さのゆえであったことは言うまでもない。

 しかし後になって小川さんの文章からわかったことであるが、小川さんはこの監修の仕事が嫌で嫌でたまらず、聖書協会の翻訳委員が藤枝の自宅を訪れても、裏口からそっと逃げ出してしまうというようなことを繰り返されたそうである。しかし部分的にはどうしてもその仕事をなさざるを得ず、旧約聖書の一部にはしっかりと目を通されたそうである。

 その部分がどこであるのかは公表されてはいないが、その日本語は「さすが」と思わせるものだそうである。皆さん、それがどの部分であるのか、一緒にさがし出してみませんか。


青野師