平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2011年8月21日 K牧師のつぶやき(1)

2011年08月21日 23時49分46秒 | Weblog
     K牧師のつぶやき(1)

 はじめは目を丸くして、いったいこんなことがあるのだろうかと思うことも、同じ場面に何度も遭遇してしまうと、ああまたかと、さしたる驚きも人はしなくなる。あるカップルの夫婦喧嘩がまさにそうで、それも人さまの前であろうがなかろうがまったくお構いなしにやってしまう愚か者夫婦であるらしい。
 彼らは、羞恥心という言葉を放棄してから久しく、どこまでも、自己肯定型の二人で、反省することを知らないという。反省ザルという賢いサルがいたが、彼らは反省セザルである。破滅の予感が双方にあるようだが、原発と同じで、制御不能となっている。これまで、神様の憐れみで夫婦としてやってこれたが、神様ももう愛想をつかしたかに見える。夫は妻のことをイゼベルだと言い、妻は夫をピラトくらいに思っている。
 もう終わりだ、と何度もつぶやいたという。結婚したての頃は、驚いた牧師が、「夫婦仲良く、夫婦仲良くだよ」と言ってくれたそうだ。愛情深い牧師は、彼らの行く末を案じた。あのとき、真剣に考えるべきだったと夫、失敗だったと妻が答えた。さて、それでこれからどうするのか、二人は考えている。
 今、二人に共通のものがあるとすれば、それは、神様に対して、ほんとうに申し訳ないという思いだ。神様を悲しませることの何と多い者たちであろうか。今では、ワンちゃんたちも寄りつかない。季節は8月下旬、秋風が吹き始めた。「それでも夫婦は偉大なんだ」、K牧師は静かにつぶやいた。


平良師

2011年8月14日 機内でのある出来事

2011年08月17日 19時42分38秒 | Weblog
    機内でのある出来事

 東京から帰りの飛行機の中の出来事。その子は、福岡空港に着陸するまで泣いていた。私の座席から5列ほど前に座っていた。あとで見てわかったのだが、4歳くらいの女児だった。どうも、両親の座席の下の床に座り込んで泣いていたようだ。痛いよう、痛いようと言っていた。機内のあちこちから、つぶやきが聞こえてくるほどであった。
 親は、何をしているのだろうか、抱いてあげてもよさそうなのに。私などは、スチュワーデスが声をかけるなりして、事情を聞いてあげて、できるお手伝いをしてあげたらいいのに、と思った。ふと、今時の児童虐待をする未熟な親たちの三面記事の内容がよみがえった。そして、こんなに泣いているのにほったからしにするなんて、ちょっとひどいのじゃないのか。そのように気持ちが高ぶってきた。
 しかし、実際は、5列も先なので、ひょっとしたら、小さな声でどうしたの、とか、いろいろとかまってあげていたのかもしれないが、それがこちらにわからなかっただけという可能性もある。最後に、飛行機が停止した直後、ようやくスチュワーデスが来て、「もしかしたら、お耳が痛かったのかもしれませんね。そういうことはよくあります」と言っていた。
 この子は耳が痛いといって泣いていたのだった。私も風邪をひいていたときに飛行機に乗って、非常に耳が痛かったことをおぼえている。降りるまで、どうにもならなかった。私に若い茶髪の両親に対する偏見もあったかもと反省した。


平良師

2011年8月7日 少年少女青年の力を得てこそ

2011年08月15日 20時50分53秒 | Weblog
   少年少女青年の力を得てこそ

 先日、S教会のサマーキャンプに妻が被災地報告をして欲しいということで呼ばれて、それに運転手として同行した。企画運営も少年少女青年たちで行っていて、ローソクを灯して被災地の話しをスライドを交えながら聞いていた。電灯を消し、ローソクを灯したのは、被災直後しばらく電気も通らない状況の中にあった避難されていた人々を思い起こすために行ったという。
 礼拝堂に灯されたローソクは、十字架の形を描いていた。その演出もさることながら、灯火のなかで参加者たちの真剣に聞き入る姿が印象的であった。昨年までは、音楽中心であったそうだが、今年は、被災地をおぼえてのキャンプにしようと考えたとのこと。
 そして、自分たちに今できることを考えようとされていた。当教会の教会学校夏期キャンプも同様に「東北のおともだちをおぼえて」がテーマである。励ましのうちわ作りもすることになっている。ところで、少年少女や青年の方々の集会は、彼らに任せる方がよいものができると思える。
 さて、私たちは、来年から始まる大名での活動をあれこれと考えているのだが、まずは、若者を中心とした集会だというなら、若者が企画し、かかわることが重要な要素となるだろう。いったいどのような集会を、誰が、どのような形で行うのか、話し合いはこれからだ。若者が課題としていること、関心のあること、どのようにしたらキリストの福音が届くのかなど、考えなければならないことが多くある。


平良師

2011年7月31日 信仰はエイヤッ!

2011年08月15日 13時10分26秒 | Weblog
    信仰はエイヤッ!

 先日、M先生と大名の庭に植える木の種類について話しをする機会があった。ハナミズキは、ピンクではなく、白がいいということであった。その理由は、花はピンクの方が華やいでいいという人が多いが、葉っぱは、白の方が形がよく、紅葉も白がきれいだそうだ。ちなみに、私は花も白が清楚で好きである。総合的に考えるとやはり白がよい、ということであった。
 M先生のお庭には、ピンクも白もあり、それらを比べてのことだから、間違いないと思った。私たちは、ものを選ぶとき、案外と全体像を見ないで、一部だけを見て、ことを決めていることが多いのではないか。それで、しまったと思うのである。ピンクよりも白が地味であるが、葉とか紅葉とか、そのようなところまで考えてみると、M先生のお考えは理にかなっている。
 ところで、中には、むしろ一部だけで判断しないと事が前へ進まないというものもある。結婚などは、一部を見て、魅力を感じ、それっーといった感じじゃないとできない。全体像を見て、それから考えてなんてやっていると、誰も結婚はできないだろう。結婚に必要なのは、冷静さではなく誤解かもしれないからである。
 それともう一つ、一部だけで十分というものがある。それは、私たちの信仰である。すべてを理解してからでないととなると、洗礼を受ける人は誰もいないだろう。むしろ、見切り発車することが信仰の始まりである。そして、多くの人がこの賭けに勝利しているのを見る。


平良師

2011年7月24日 私にはできないが今なすべきことは何か

2011年08月12日 19時39分55秒 | Weblog
 私にはできないが今なすべきことは何か

 2011.3.11以来、日本はかつてない程の国難に遭遇している。今度の東日本の多くの災難に対して日本人は忍耐し、協力して新しい国造りに取り組もうとしており、諸外国から賞讃されるメッセージも寄せられている。この歴史的災害をわれわれはどう受け取るべきかは、人それぞれ違った考え方、宗教観や人生観をもっていると思う。
 それにしても、今後かなり長い期間、日本の国全体の深刻な課題は続き、落ち着いた生活は容易に到来しないのではないかと考えさせられる。3.11の災害がなかったとしても、われわれが気づかないでいた問題もいくつかあったかもしれない。
 神の愛と導きは一体どこに見出すことができるのか、神の言葉はどのようにして受け取ることができるのだろうか。
 神とは何か?その難問を解く鍵はどこにあるのか?人々は誠実に生きようとしているのに、こんなにも矛盾した人間の幸、不幸の出来事をどのように理解したらよいのか。苦しんでいる人々に私たちは何をしてあげられるのか!ナウエンのように弱い立場、病をもっている人々に添い続ける覚悟が、自分自身にあるとはとても言えない。人間は自分の人生だけ楽しめばよいと考え、日々の祈りを怠る人間に陥るしかない罪を、神に取り去っていただくしかない。
 そのことを告白し、懺悔するしかないことを覚えたいものです。


平良師

2011年7月17日 グリーンカーテンと信仰

2011年08月11日 23時21分13秒 | Weblog
   グリーンカーテンと信仰

 この夏、節電対策の一つとしてグリーンカーテンを作っている家が多いという。その中でもゴーヤのグリーンカーテンがブームのようだ。牧師室の西側の窓にも今年それをしてもらった。M兄が、しっかりとしたものを作ってくれた。ゴーヤ好きの私には一石二鳥というやつで、毎日、ゴーヤの実がどれほど成長したかと、楽しみに観察している。
 葉っぱもいずれ網の目状になって、窓を覆い尽くすことだろう。そうすると、午後から極端に暑くなる牧師室も少しは涼しくなる。私たちの心にも息苦しくなるほどの強烈な陽射しと熱風が注ぎ込むことがあるが、心のうちにもこのようなグリーンカーテンがあればと思う。
 強いて言えば、それが信仰と言える。私たちは、この世の生活でダメージとなる外部からのいろいろな強い刺激を受ける。しかし、その刺激から信仰は私たちを保護してくる。刺激そのものを和らげてくれる。グリーンカーテンは、信仰だと述べたが、それを突き詰めていくと、イエス様かもしれない。
 イエス様が、私たちと外部の強い刺激との間に大きくはだかって、守ってくださっておられる。しかし、そのイエス様は、いつも甘いばかりではない。むしろ、ゴーヤのように苦く感じられることもある。だが、体にはすこぶるよく、慣れてしまえばその苦さに旨みをおぼえる。「節電」の向こうに崩れた原発の風景が広がる。できることなら、あちらの風景もまたグリーンカーテンで覆われないものだろうか。


平良師

2011年7月10日 ようこそ平尾バプテスト教会へ

2011年08月11日 23時17分36秒 | Weblog
  ようこそ平尾バプテスト教会へ

 本日は、ようこそ平尾バプテスト教会へお越しくださいました。心から歓迎させていただきます。私たちの教派は、キリスト教のプロテスタン(新教)に属しています。プロテスタント諸教派は、16世紀の宗教改革をきっかけに生まれたものですが、バプテストは、その後、イギリスに起こりました。
 そして、アメリカに渡り、戦後特に米国南部バプテスト連盟の宣教師たちによってもたらされたものが、当教会のルーツです。その多くは、日本バプテスト連盟に加盟しており、協力伝道を担い合っています。西南学院、西南女学院などもバプテストの先達たちが創設した学校です。
 バプテストが大事にしていることをいくつか紹介致します。まず、聖書を中心とした信仰です。それから、信仰告白をした者にのみバプテスマ(洗礼)を施し、幼児洗礼は致しません。洗礼の形は、全身を水に浸す「浸礼」です。教会は、それぞれが支配・従属の関係にはなく自主独立で、各個教会主義です。また、民主的な教会運営を行っており、教会員は等しく福音宣教に携わっています。また、信教の自由・政教分離の原則を大事にしています。
 不安定な社会の中に生きる現代人にとって、人生の価値観や生きる上での基本をどこに定めるかは重要です。消えることのない希望、いつも愛されているという心の平安と豊かさ、それらのものをイエス・キリストにある信仰は保証してくれることでしょう。どうぞ、続けて礼拝にお越しくださいませ。


平良師

2011年7月3日 癒される場所に 

2011年08月04日 23時22分29秒 | Weblog
    癒される場所に

 挫折感を味わった人にとって、立ち直りのきっかけになるのは、甘やかさずにびしばしと厳しく鍛える訓練ではないということである。逆に、自分はこのような点で必要とされている、自分という人間もやれるじゃないか、我ながら悪くない、そういった感情を得られることだという。
 徴税人ザアカイが、イエス様から無条件で受け入れられたとき、自らそれまでやってきた不正を反省し、貧しい人に施すことを申し出た。しかし、今の社会に、無条件で受け入れてくれる所など、いったいどこにあるだろうか。資格や能力がなければ、結果が出なければ、あっという間に、放り出されることになる。そしてまた、家庭も地域社会も、放り出された人々を庇護する力に乏しくなってきている。
 良きサマリア人のたとえ話の中に登場する強盗に襲われた男性は、傷つき倒れて瀕死の状態にあった。助けを求めていただろうが、傍を通る人々は、彼を見て見ぬふりをするのだった。そして、祭司すらも、倒れている人を見たが、予想される困難を避けた。現代社会には、誰もが見ぬふりをしていると、失望している人が多くなっているかもしれない。
 しかし、教会はどうであろうか。教会は、イエス・キリストの教会だから、そんなことはないと思いたい。教会は、嵐を避け、逃げ込むことのできる港でありたい。だから、笑いの向こうに悲しみを、さりげない所作に失望を読み取ることのできる研ぎ澄まされた感性を持ちたいと思う。


平良師

2011年6月26日 バプテストは万人祭司

2011年08月02日 00時20分11秒 | Weblog
   バプテストは万人祭司

 神学校を卒業しても、牧師としての資格をもらえないのがバプテストだ。資格がそもそもないのだから、牧師でなければできないということは、何もないことになる。信徒は説教も葬儀や結婚式もできる。教会の委託があれば、それは実現可能だ。主の晩餐やバプテスマ式などの礼典は、按手礼を受けていないとできないと考えている方々もおられるが、教会が委託すればだれにでもできる。
 なぜなら、バプテストでは、牧師としての資格を大学の教育機関ですら出さない。それができるとすれば、各個教会だけということになる。ただし、教会が、その必要を認めないのであれば、按手もする必要のないものになる。現在多い按手の形は、初めて牧師として立つ牧師の就任式時の按手であって、それは専ら祝福や委託の意味で行われていて、決して権威付与ということではない。按手礼を受けた牧師にこそ新たな資格が生まれるというのは、バプテスト的だろうか。当該教会の会員でもないよその牧師たちに権威付与の資格があるだろうか。ただ、牧師に招聘された者は、神様との関係において誠実でなければならない。
 つまり、その教会の牧師として立つようにとの神様からの招きを真実に受けたのか、だ。これは、本人の信仰告白を聞き、周りが判断する以外にはない。バプテストの牧師は、教会から牧師としての働きを委託されていて、それを召命感との関係で納得し、受け入れている。バプテストは真実に万人祭司である。


平良師