平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2015年2月22日 これからの時代は・・

2015年02月28日 23時05分48秒 | Weblog
これからの時代は・・

 時代をいかに読むかは、非常に大切である。これからの時代について、いろいろな分野で、いろいろな人々が、いろいろなことを述べている。おそらく、誰もがこれから先の日本社会がどうなるかを予想しているはずである。国も会社も、先を先を読んで、次に備えている。先を読もうとしない者は、時代に取り残されて、無用の者となってしまう。しかし、たとえ先を読んでいても、その読みが的外れであれば、大きな損害を被ることになる。
 神学者のバルトは、「片手に聖書、片手に新聞を!」と、言った。時代に呼応しない聖書解釈や信仰は、意味がないということか。パウロも、異言よりは、預言することを勧めている。これからの日本もだが、その中にある教会はどうなるのだろうか。
 私たちキリスト者は、この時代に向かって、聖書からきっちりとした神様の言葉を発していく使命がある。しかし、とりあえずは、キリストの教会は、この日本の社会に立ち続けることである。教会もまた、少子高齢化のなかで、その存立が揺らいでいる。立ち続けることが困難で、神様に祈りつつも、苦境の中にある教会は少なくない。
 先週は、嶋田宣教師ご夫妻の派遣礼拝に連合の教会の多くの兄弟姉妹たちが祝福と激励に来てくださった。協力伝道のありがたさと同時にその豊かさを思った。これからは、こうした諸教会との連帯も大事にしながら、教会自体も、なるべくチームで動くことを考えていく方向がよいのではと思わされた。


平良師

2015年2月15日 嶋田宣教師ご夫妻を送り出す

2015年02月22日 13時51分07秒 | Weblog
嶋田宣教師ご夫妻を送り出す

 宣教師として旅立つ者の気持ちをつなぐのは、送り出されている、派遣されているということころにあるのではないかと勝手に想像した。日本バプテスト連盟が派遣する宣教師だから、連盟につながる諸教会が嶋田さんご夫妻をおぼえることになる。そして、私たちの平尾教会がおぼえ続け、支援していく。
 この送り出されているといった意識を持ち続けることができる限りにおいて彼らは宣教師として立っていけるだろう。そして、彼らのカンボジアでの一つ一つの活動が、私たち送り出している者たちを勇気づけたり、立ち止まらせたりするだろう。私は、よその教会のことも、ましては、他国にある教会や宣教活動など、とても思いが及ばない。
 まずは自分の教会と思うし、まずはこの日本の宣教だろうと考え、そのことをいたるところで主張してきた。今日、祝辞をお願いした村上幹事とも幾度かそうした話をしたことがある。地の果ては、キリスト教不毛の地のこの日本ではないかと。しかし、最近神様は、私には大いなる皮肉屋さんである。妻が、4年前に国外伝道を推進している女性連合の副会長となり、今度は、私の牧会する教会から宣教師となって派遣される方が起こされたのである。
 そして、その方々を私たちの教会は、送り出す教会として、これからもなおおぼえ続け、彼らを支援し続けていくのである。神様はこの平尾教会を用いることをお決めになられた。今はその神様の選びを畏れ、そして感謝している。


平良 師

2015年2月8日 「会堂記念日礼拝」を迎えて

2015年02月14日 22時17分51秒 | Weblog
「会堂記念日礼拝」を迎えて

 数年前から礼拝の出席者が100名を超えるようになり、会堂を拡張するか、或いは、何か他の方法を考案する必要が生じてきた。折も折、大名の300坪ばかりの土地を宣教のために用いる案が浮上してきた。色々な問題もあるが、とにかく福岡地方バプテスト連合の中で平尾バプテスト教会が中心となってこの地の宣教のわざを興し、新しい歩みを始めようということになった。
 新しい礼拝堂もでき、大名における九州バプテスト神学校の経営も始まって2年が経つ。今後、平尾と大名という二つの場所で展開する平尾バプテスト教会の宣教活動については、関係各位の方々が、定期的に協議を重ねられて、意欲的な発展が見られるように希望してやまない。


松村 師

2015年2月1日 心が麻痺する時代の中で

2015年02月08日 23時36分12秒 | Weblog
心が麻痺する時代の中で

 胎内の子どもに異常がみられた場合、親はどうするだろうか。遺伝子検査を行って、異常があることがわかった妊婦の97%が堕胎をしたというニュースを最近聞いた。2年ほど前からだったと思うが、血液検査で異常があるかないかが、わかるようになった。こうした事態は予想されたことであったが、実状を知らされて、人間のなかにある生命倫理感にめまいをもよおした。
 しかし、私も自分の子どもや嫁が同じような状況に至ったとき、はっきりとものを言えるだろうか。この一年に起こった殺人事件に、「誰でもいいから、人を殺してみたかった」というのがある。いずれも加害者は未成年だった。これまた、いったい日本の教育や文化はどうなってしまっているのだろうかと、末恐ろしくなった。
 テロリストたちが、人を誘拐して、意が適わぬと平気で殺害する。それをネット上で流し、誰もがそれを見ることができる。恐ろしい時代になったものだ。人の命が、いとも簡単に抹殺される世の中である。残酷なシーンもいくらでも見ることができる。人々の心は麻痺する。
 テロリストたちに誘拐されているジャーナリストのGさんは、キリスト者である。内戦で犠牲になっている現地の人々に寄り添って、真摯で良心的な報道を行ってきたという。今日の日没がリミットということで、日本中の誰もが心配し、心が折れそうになっている。生還されることをただただ祈るのみ。人が生きることをどの宗教も教えてきたではないか。


平良師

2015年1月25日 反抗期は成長の始まり

2015年02月05日 23時01分08秒 | Weblog
反抗期は成長の始まり

 2歳になったばかりの孫とあと4ヶ月足らずで3歳になる二人の孫を見ていると日々知恵がついていくのがわかる。それも、この二人が一緒に一つ屋根の下で2週間ほど暮らすことになったのだが、急速に知恵がついた。いわゆるわんぱく小僧となったのである。
 二人揃うとダメと言えば言うほどに、それをやりたがる。机の上に上ったりして、危ないのでダメだと言って下すと、また面白がって上がろうとする。母親が叱っても、どこ吹く風とばかりに、笑いながらやろうとする。こちらの年齢もあるのだろうが、私も孫を、子どもと違ってとても真剣になって叱ることができない。
 先日、連続しておもらしをしたので、母親から「もうベービーだからね、またおむつしないとね」と叱られた孫は、逆切れして「ベービーじゃない」と言った。そこで母親がまた、「否、おしっこと言わないで、おもらしするのはベービーだよ」と言ったものだから、3度立て続けに、しかも大声で「ベービーじゃない、ベービーじゃない、ベービーじゃない」と言い張った。
 日頃、大人しい孫なものだから、なかなかやるねえと思った。また、これまで物を取られたりしても黙ってボーっとしていた孫だったが、二人で欲しい物の取り合いをしているのを見て、これもまた人並みになってきていると思った。反抗的な態度をとったり、物の取り合いをしている姿は親から見ると悲しく罪の萌芽をみるようで不安になったりするが、成長の過程でもある。


平良 師