平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2017年5月21日 二ヶ所で一つの教会を作るメリット(利点)

2017年05月30日 12時23分25秒 | Weblog
二ヶ所で一つの教会を作るメリット(利点)

 ガラテヤの信徒への手紙3章の38節の後半の「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」という「一つ」という言葉は、「一人」と訳した方がよいと言われる。つまり、イエス様において、多くが集まって一人の人間にさせられている。
 ある人は鼻であり、ある人は目であり・・そのように、一つ一つの体を作っているものが合わさって一人のキリストという体を作っているということだ。であれば、まさに、私たちの教会は、その姿をさらに進化させた教会だと言えないだろうか。キリストの教会は、本質的に多様性を必要としていることがわかる。
 鼻は鼻の役割を果たし、目は目の役割を果たしながらキリストの体なる人として生きていくということである。すべてが、鼻になれば、生きていくことはできない。ただ、それゆえに、この個々の多様性や自由を大事にしながらも、教会は宣教の広がりを求めて、動いていかなければならない。教会は呼吸をし、栄養を補給し、体を動かし、健康を保ちつつ生きていくのである。
 現在の二ヶ所でやっている宣教活動がもっと豊かになるために、さらに行ったり来たりの全体の流れがスムーズに循環して一つになるために、今年度、教会組織改革検討委員会ができた。事柄の流れがどうしても滞ってしまうところは、その原因をさぐり、水道管を拡張したり、柔軟な素材を使用したり、二つの水道管をつないだり、バイパスを作ったりということも必要となるだろう。


平良 師

2017年5月14日 春に芽生えていく『いのち』

2017年05月30日 11時53分17秒 | Weblog
春に芽生えていく『いのち』

 キリスト教において、「命」とは、この世界の命だけを指すのではなく、「永遠の命」の約束をも意味しています。聖書がいう「永遠の命」は、命の長さを指しているだけではありません。神様を信頼し、生活をしていく中での「豊かさ」を指しています。既に味わっている「豊かさ」は、死によって終わるのではなく、継続するという約束です。また「豊かさ」とは、平和、愛、希望です。この「豊かさ」を今からでも味わい、天国をのぞくことができますように。
 キリスト教会が中心に据えているのは、自分だけではなく、相手の命を大事にする「隣人愛」です。私たちは、社会の弱者に目を向けるように、社会に意思表示ができない人たちに耳を傾けるように、心身障害のある方、また経済的に困っている方々の味方になりたいものです。喜びがあれば、共に喜ぶと、それが倍になり、悲しみがあれば、それを共に抱えると、半分になると言われています。(参考:ローマの信徒への手紙 12章15節)その実践として、お互いにお見舞いに行き、お見舞いの電話をかけることです。私たちは「共に生きる」ことを目指し、被災地の仮設住宅を訪問します。直接の問題解決にはならないかもしれませんが、共にいるだけで意義があると信じています。
 自分と他者の命は神から与えられている貴重なものだと信じるようになります。この命は一回きりの大切なものなので、無駄にならないように、励ましと応援をしたいと思います。
 最後に、私にとって、未解決の大きな課題は、自死防止のための対応です。まだまだ、自死される方が多すぎます。これは福音メッセージが直接に応答する事柄として受け止めたいと思います。キリスト教会だからこそ、助けられることがあるでしょう。今週、新緑の美しさを感謝し、自分の命、人の命を感謝して、大事にして歩みましょう。


L・ハンキンス 師

2017年5月7日 それぞれに主が働かれた一年だった

2017年05月30日 11時48分56秒 | Weblog
それぞれに主が働かれた一年だった

 先週の報告総会では、多くの方々が自分のかかわっている奉仕の場所から報告をしてくださった。いろいろなところで、いろいろな方々がご奉仕くださったことに感謝したい。そして、自分の担当された奉仕の成果を報告してくださった。それは、神様のなされたことであり、また、神様のくださった恵みの数々だと言える。
 特に5人のバプテスマは教会の喜びであった。総会では、それぞれに、十分な報告の時間が必要であったのだろうが、先週お配りした資料を既に読んできてくださっているという前提で会議は進められたのだった。それでも、5時頃までかかった。何とか、夕飯前に終えることができたのは皆の協力があったからに他ならない。
 教会の一人一人が、心を合わせてこの世にキリストの光を掲げているさまは、キリスト者でない者にも好印象を与えよう。そのような一年の営みであったと信じる。また、監事からいくつかの問題の指摘をいただけたことはありがたかった。執事会で、それぞれについて改善策を話し合うことになるだろう。教会がこの世に立っている意味は、イエス・キリストの福音を宣ベ伝えるために、まずはある。
 それから、イエス様を信じた者たちが、復活の信仰に生き、イエス様の再臨を待ちながら御国への準備をするために教会につながっているのである。そして、教会につながることは、そのまま、まだ見ぬ神の国に生きることを少しでも体得しているのだと信じたい。


平良 師

2017年4月30日 復活者イエスとの出会い

2017年05月30日 11時41分34秒 | Weblog
復活者イエスとの出会い

 4⽉16⽇のイースターの⽇には、私は東京の品川バプテスト教会で説教する機会が与えられた。そこでは、平尾教会では何度もそうしてきたように、「マルコ福⾳書」末尾の16章のうち、とくに7節の、復活者イエスには「ガリラヤで会えるだろう」との「若者」(「天使」のことであろう)の⾔葉に注⽬した。そしてさらに8節の、「婦⼈たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そしてだれにも何も⾔わなかった。恐ろしかったからである」との奇妙な終結部にも注⽬した。
 それが奇妙であることは、⻄暦70年頃に書かれたとされる「マルコ福⾳書」よりも20年ほど後の90年頃に成⽴したとされる「マタイ福⾳書」における並⾏箇所の、28章8~9節の記述と⽐較すれば⼀⽬瞭然である。マルコはそれによって、「復活したイエスを描かないで描く」という、まったく「逆説的な」⼿法を導⼊している。そこにあるのは、世界の⽂学史上初めてマルコが創出したこの「福⾳書」という⽂学類型のなかで、彼が描き出した「ガリラヤにおける」イエスの⾔葉と振る舞いとを⼈は繰り返して通読することによって、「復活者イエス」に出会っていくのだ、とのマルコの主張である。
 伝統的な「伝記」がその⼈の⽣涯全般を描き出すのに対して、その⽣涯のほんの⼀部分にのみ集中してそれを伝記的に描くのが「福⾳書」なのだが、そのような⽂学類型は、「マルコ福⾳書」以前には皆無だった。そしてそこで描かれた「ガリラヤのイエス」は、福⾳書の通読によって、今や「復活のイエス・キリスト」として、読者である私たちの⼼において、私たちに出会っていくのである。「復活のイエス」とのこのような「出会い」理解は、7節で「⼗字架のイエス」がどのように表現されているかに注⽬することからも読み取れる、と私はさらに展開した。
 なぜならばそこでは、70年頃に成⽴したマルコ福⾳書に先⽴って50年代に執筆されたパウロ書簡のなかの独特な⽤法が踏襲されているからである。すなわち、「⼗字架につけられた」の部分を現在完了形の分詞によって表現する「⼗字架につけられたままのイエス」というパウロ独⾃の⽤法を、マルコもまた採⽤しているのである。そのようなイエス像は、⼗字架につけられ、降ろされ、埋葬された、という実際の歴史的な経過には逆らっている。
 それゆえにそのイエスは、パウロの⼼のなかで出会ってくれたイエスでしかない。超⾃然的な、しかし実体的なイエスの「復活体」をいたずらに強調するよりも、私の⼼において出会ってくださるこのイエスを受け⽌めていくことのほうが⼤切なのではないか、そう私は主張した。説教後に品川教会の99歳のご婦⼈が、「よ~くわかりました」と⾔ってくださったが、皆さんはどうであろうか。


⻘野 師