平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2018年5月20日 ハラスメントの時代

2018年05月31日 22時51分03秒 | Weblog
ハラスメントの時代

 ハラスメントとは、嫌がらせや相手を不快にさせる行動のこと。セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、モラルハラスメントなどが一般的だが、おそらくいくらでもハラスメントと呼べるものはあるのだろう。
 私は、人工的な臭いのない生活環境で暮らしているので、香水の強いものは不快をおぼえる。スメルハラスメント。タバコの煙で非喫煙者に受動喫煙をさせたりするのはスモークハラスメント。いい年なんだからそろそろ結婚しないとね~、マリッジハラスメント。ずるずると音をたててラーメンやうどんを食べる、ヌードルハラスメント。コンビニやレストランの店員などに土下座を強要したりする、カスタマーハラスメント。A型ってこんなタイプよね~、ブラッドタイプハラスメント。自分が信用できないのなら他の病院へどうぞ、ドクターハラスメント。男なのになよなよしているねえ、ジェンダーハラスメント。私たちを不快にさせるものは実に多い。
 なかでも、セクハラ、パワハラなど、命にかかわるほどの人権侵害や心的にも不利益を被ったことに対しては、裁判ざたになったりする。それくらいと思ったりするが、その本人が不快と感じたらハラスメントである。これまでは、我慢することで終わっていたものも、今の時代は、人権にかかわることだということになり、甘くはないことを心しておかねばならない。最後に、教会に来ないと地獄に堕ちますよ、これはレリジャスハラスメント。


平良牧師

2018年5月13日 家族の日礼拝

2018年05月20日 16時06分39秒 | Weblog
家族の日礼拝

 今日は、「母の日」。この由来は、米国の教会学校の教師をしていたジャービスさんが、ある日の教会学校の時間に、みなさんはお母様にどのようにして感謝を表しますか、と問うたことがあり、それを娘さんが思い出して、お母様の召天記念日に赤いカーネーションを教会に持っていったのに因んでいる。
 だから、母の日はキリスト教から始まった行事の一つなのである。この日に、平尾教会は、お母様だけでなく、神様が与えてくださった家族の一人一人に、互いに感謝を表そうと考えた。それだけでなく、教会の神の家族たちにも、同様に互いに感謝の意を表そうと思ったのである。それで、母の日に、「家族の日礼拝」を守るようになった。
 これまでは、このとき、平尾教会では礼拝のなかで、「シャローム」と、あなたに平和がありますように、と互いに挨拶を交わすことにしてきた。今日は、合同礼拝ということもあり、日ごろ、それぞれの場所で礼拝を守っている者同士が神の家族としての挨拶を交わすことにした。まず、「シャローム」と挨拶してから、会話を交わそう。3分という短い時間だから、簡単な自己紹介程度しかできないが、ちょっとだけ、身近に感じられる人が与えられたということでは大きな意味がある。
 その分、互いが日ごろ守っている礼拝が身近になったと言える。私たちの教会は、二ヶ所で宣教活動を行い、3つの礼拝を守っている一つの教会である。一つの群れ、一つの神の家族としてこれからも共に歩む。


平良牧師

2018年5月6日 歌と思い出

2018年05月12日 23時39分46秒 | Weblog
歌と思い出

 ある歌を聞くと、その当時のことが思い出されて少々感傷的になる。歌は、特に大名クロスガーデンができてから、再びとても好きになった。小学生の頃まで、歌は好きで、学校で習った歌はもちろん、歌謡曲もよく歌っていたのだが、音階などについて難しいことを習い始めてからは、わからないので面白くなくなった。
 それに、変声期で声も思うように出せなくなったのも一つの理由である。それでも、私の若い頃は、フォークソングが華やかりし時で、高校生から大学生の時も、出ない声をかすれ気味に出して歌っていたこともある。牧師になって、讃美歌をアカペラで歌うときなど、へたくそなので困った。しかし、大名の礼拝堂で讃美歌を歌うと、なんだか気持ちよくて、えらく丁寧に歌うようになり、それに声も無理することなく自然に出るようになった。
 それに、気のせいかもしれないが、何となく講壇の私の座っている位置は、自分の声がたいへん響き渡るような感覚をおぼえるのである。時々、いろいろなときに、讃美歌を口ずさんでいる人がいるが、そうした人に出会うとうれしい気持ちになる。そのときどきに好きになった歌は、その時代の思い出と重なり合うことがある。讃美歌もそうだ。私の好きな讃美歌は「イエス君はいとうるわし」で始まる。
 季節ごとの風景とイエス様のうるわしさを重ねている。教員生活一年目のつらい時期の朝の礼拝でアメリカ人の宣教師がファゴットで演奏されたのだった。


平良憲誠 主任牧師

2018年4月29日 心に留めおかれる

2018年05月08日 23時08分35秒 | Weblog
心に留めおかれる

 朝、目覚めたときに、ふと、自分は誰それのことを考えていたのか、と気づくことがある。教会にずっと来ていない人のことや心配ごとを抱えている人のことなどである。そして、時間が少したって朝食をする頃には、もう、そのことを忘れているのである。
 神様は、そのように、私に今、考えなければならない人のことを教えてくださる。にもかかわらず、私は、その人のことをずっと気にしたままの状態にはあらずで、またもや忘れていくのである。しかし、何かのことで、その人のことをまた思い出す。神様が、今、しなければならないことを何らかの形で、教えてくださったり、示してくださることがあるが、私たちは、それをずっと、心に留め置くことができない。
 おそらく、本人やその家族、いわゆる当事者だけが、ずっとずっと心にかけるのであろう。心に留め置く、それは、私たちキリスト者は、祈りという言葉で表現できるだろうか。祈ってください、と私も言い、祈っていますと人からも言われる。それは、麗しい関係である。しかし、ずっと祈り続けることも、ずっと関わり続けることも容易ではない。
 キリスト教の神様は、インマヌエルの神様だと言われる。「神、我らと共にいます」という意味であるが、このことを人は望んでいる。誰もが、自分を忘れ、離れていったとしても、神様だけは、このどうしようもない自分とずっと一緒にいてくださる、そのことをどこまでも信じるのが信仰である。


平良主任牧師

2018年4月22日 キリスト者は献身者

2018年05月01日 23時14分07秒 | Weblog
キリスト者は献身者

 ハンキンス先生は、宣教師魂を持っておられる。先生は、ほんとうに献身者であり、これまで日本人を愛してくださった。そして、未信者の魂が一人でも救われることを心から願われた。
 献身者は、神に仕え、人に仕えている人だと思う。だから、牧師であろうと、一信徒であろうと、献身をしている人々は当然いくらでもいる。こういう人々は、自分の生活は二の次である。自分が他者に認められるとかそうでないとかは、どうでもよい人々だ。自分を守る姿勢も持たない。守るべきは、自分の神様への誠実な信仰だけであって、すべてのことは神様が何とかしてくれると信じている。
 真実に神様と出会ったのなら、このお方に従うことを誓ったのなら、自分の十字架を負って、命を賭けて歩んでいこうと人はするだろう。献身者には、苦しい体験のなかでイエス様と出会って、救われたという実感を人一倍に持っている方が多い。だから、感謝に溢れ、他者の苦しい思いや状況にも寄り添い、神様からのどんな労苦も厭わない。しかし、牧師であり、献身者と言われている者のなかには私のように甘い者もいるのも事実で申し訳ない。
 それでも、その多くは赦されて、その任に与らせていただいている。教会員で、この方は献身をしているのだと思う人は、神に仕え、人に仕え、共にキリストの教会を建て上げようと一生懸命である。私は、平尾教会のすべての信徒たちは、献身者だと言いたい。


平良 牧師