平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2016年8月21日 けれども金メダルは ・・

2016年08月26日 11時34分16秒 | Weblog
けれども金メダルは ・・

 アスリートには失礼なお話だが、昔から言われるように、何も考えたくなければスポーツ観戦をすることだ。実際、観る側のことで言えば、自分もその競技に参加しているような気分になって興奮したり、はらはらどきどきして楽しい。そして、競技において数々のドラマが生まれ、勇気や励ましをもらうことも少なくない。
 また、最近は、これまでのその選手の努力が描かれて、その努力が報われたとか、そうでないとか、感動させられることが多い。そのようなときに、観戦している者で現在自分が抱えている問題のあれこれを考えている人はいない。しばし競技に夢中になって忘れている。
 だから、政治を行う者たちにとってもスポーツ振興は欠かせない。国民に、政治の破れをあれこれ見て欲しくなければ、オリンピック招致をして、愛国心を養ったり各々の生活苦などを忘れさせることだ、と誰かが言っていたっけ。う~ん、そうかもしれない。それでも、スポーツをする人も観戦する人も、スポーツは私たちの生活の中に大きな位置を占めていることは事実だ。先ほども述べたように、一日の疲れを癒し、人生を少し楽しみたいときスポーツの果たす役割は小さくはない。
 そして、スポーツをする者も単なる体力作りだけでなく、礼儀とか仲間作りとか忍耐力とか協調性など、人間形成にも有益である。しかし、キリスト教的な観点から言えば、うしろから一位の人こそ金メダルはふさわしいということになる。


平良 師

2016年8月14日 今どきの葬儀やお墓事情

2016年08月26日 11時30分54秒 | Weblog
今どきの葬儀やお墓事情

 今週は、日本はお盆の時期。キリスト教の信徒たちは、復活や天国や永遠の命というものを信じているので、死者への思いが希薄であるという人がいるが、そうではない。身内を神様のみもとに送られた方は、寂しい思いを抱きながら過ごしている。ただ、すべてのことを神様にお委ねしているので、仏教のように何年も、そして何度も供養の儀式を重ねる必要がないだけである。
 そういった意味では、残された者たちはこちらの供養によって死者が成仏するとかしないとかの考えにとらわれる必要がないから、死者が神様のみもとに安らいでおられることを信じて、安心して暮らしている。もともと、この世の家族もまた神様が与えられた一人一人であって、つながりの基本は神様と一人の人間の関係でしかない。
 さて、キリスト教式の葬儀社を開業した人から聞いたのだが、最近、直葬というのがあって、葬儀を早く安く済ませるために、前夜式、通夜、告別式などをしないですぐに火葬をするのだそうだ。また、独身者や離婚をした方、孤独な高齢者の方々が、他人でありつつ共同の墓に入ることを前提に、お付き合いを楽しむ墓友なるものの存在がある。
 時代が変れば、葬儀の仕方やお墓の考え方も変わる。墓石の代わりに樹木を植える霊園もある。法的な規制に従えば、何でも、どのような形も可能となるだろう。ただし、葬りを行う者たちの気持ち、残された者たちの気持ちに慰めと平安が与えられることが大事である。


平良 師

2016年8月7日 平和を作る方法のあれこれ

2016年08月26日 11時25分11秒 | Weblog
平和を作る方法のあれこれ

 「平和を実現する人々は、幸いである」と教えられたイエス様は、平和の作り方についても具体的に教えられた。
 「剣を取る者は皆、剣で滅びる」、「だれかが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」など。平和は、いろいろな意味で私たちが求めてやまないものだ。
 戦争や紛争のない状態はもちろんだが、個人的にも心がざわざわする状態も平和とは言い難い。それは、不安であったり、恐れであったり、怒りであったり、憎悪であったり、納得できない何かであったりする。それらを解消するには、謝罪や譲歩や償いや理解が必要となる。人は、それぞれに個性がある。それこそ思想信条の自由がある。ある人からすれば愚かにしか思えないことも、その人には大事だ。ある人が得意げに話すことを、ある人は軽蔑して聞いていることもある。
 だから、このような社会や人間関係の平和を願うのであれば、己が十字架にかかることになるのを受け入れたり、己の十字架をキリストのために担うという行為が必要になるということだ。具体的には、それぞれの生きている場所で、そのことを実現するしかない。主にある信仰と勇気と決して諦めない心だ。


平良 師

2016年7月31日 人間は晴れも雨もある存在

2016年08月26日 11時21分02秒 | Weblog
人間は晴れも雨もある存在

 「隣人を自分のように愛しなさい」。助けを求める人がいるなら、その人の力になる。助けを求める力さえない者がいれば、当然、その人の力にもなる。助けを必要とし、求めることができても、当事者の考えがあり、それを求めない場合には、そのことを尊重する。ただし、そのことが、命にかかわることであれば、出しゃばることも必要。いずれも、助ける立場、助けられる立場に自分の身をおくことを忘れないでいたい。
 また、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあるように、神様が創造された命はすべて極めて良かったと言いうるもので、人間のいかなる者も、その命を奪うことは許されていない。こうしたことを、私たちは聖書から教えられている。
 教会は、多くの肢体から一つのキリストの体を構成している。教会を構成している肢体には、いろいろな方々がいて、そのいろいろな方がいるからこそ教会は豊かにされている。私は目でないから、鼻はいらないなどとは言えない。どのような肢体でも安心していられる群れが、よい教会で、互いに依存し合うことでさらによい教会となる。
 最近、とんでもない事件が起きた。ある人間が、健常者の社会を優先させて、重い障害を持っている人々を殺害したのである。日本は長寿国である。弱い人々を大切にしているからだと誇りに思っていた人々もいただろう。しかし、平気でヘイトスピーチをする社会にもなってきた。


平良 師

2016年7月24日 気づき

2016年08月26日 11時16分48秒 | Weblog
気づき

 毎日一房、そしてまた一房と、16もあったデェラウェアのぶどうの房が、無くなっていった。最初は、青い房のついた枝が、ぶどうの木を植えている鉢の下に折られたようにして落ちていた。そのようなことが何度か続いて、今は、二房しか残っていない。
 まだ、食べられるほどには熟しておらず、いったい誰が何のために、そのようなことをしているのだろうと思っていた。いったいどのような現象があってこのような事態になっているのだろうと。おお、ミステリアス。そして、ついに、犯人がわかった。それは、カラスだった。昨日、このカラスと遭遇して追い払った。
 今年は、熊による被害も、例年に比べると多いと言われる。そして、人間の生活圏に入ってくるものも少なくない。原因は、山に食べ物がないからだという。カラスもこんなものを食べなければならないほどに、食べものがないのだろうか。人間が気づく前に自然界では、いろいろな環境の変化が起きていて、動植物の喘ぎが始まっているかもしれない。預言者エレミヤに、神様は、何が見えるかと言われた。エレミヤは、「アーモンドの枝が見えます」と答えた。春が近づいていることがわかる。
 いよいよ、神様の御心が行われるのである。さて、私たちには、今、何が見えているのだろうか。目の前のカラスを追い払うのが精一杯で、その背後で起こっていることまで気づかない。否、大袈裟に考えることは何もいらない。餓えたカラスがいただけだ。


平良 師

2016年7月17日 何という恵み!

2016年08月07日 18時30分17秒 | Weblog
何という恵み!

 わたしの愛する平尾教会は、いつも主の恵みに満ちあふれている。優しい教会員が温かく迎えてくれる朝の平尾での礼拝。信仰のお兄ちゃんお姉ちゃんからおじちゃんおばちゃんの信仰生活の喜びを伝えてくれる子供メッセージ。奏楽を子どもたちで担当する子ども讃美。聖書のお話を真面目に説いてくれる平良先生。奏楽は小さなパイプオルガンが、高い天の音から、私達が土塊から造られたことを思い出させてくれるような低い土の音まで、奏楽者の祈りと共にささげられる讃美。
 場所を移して大名クロスガーデンに来れば、礼拝のために備えているワーシップチームの力強い讃美の声と共に、美味しそうな匂い。礼拝に備える奉仕者やお腹を空かせて来られる方々のために用意された献品によるご飯が毎週用意され、そのご飯はアーベントチャペルで奉仕をされる方々にもおにぎりになって届き、その優しさが嬉しい。
 礼拝前には有志で礼拝のために祈り、讃美する時を持ち、礼拝では信仰を励ます讃美と分かりやすいメッセージ、そしてそれぞれの一週間への旅立ちの祝福を覚えて「主の山に備えあり」の賛美「主を仰ぎみて」を讃美してそれぞれの日常に出発する。
 わたしの愛する平尾教会の日曜日の何という恵みの深さか。私が誇りとしているのは、愛する教会のメンバーひとりひとりだ。キリストの良き証者として生き、輝いているメンバーが教会に集められ、その礼拝を共になす時、私の人生の中での最も深い喜びが、ここにある。その喜びを与えてくれる教会にいつも感謝したい。


森 師