イエス様に伴走も伴奏もしていただくうれしさ
伴奏が上手なので、歌を気持ちよく歌うことができる。おかげで、当教会の礼拝時の讃美歌は、皆声高らかに気持ちよく歌っている。かつて、フラに合わせてDCGでユー・レイズ・ミー・アップを歌わせてもらったことがある。その時には、ご存じのファゴット奏者NさんとピアノのTさん、それからコントラバスのOさんが伴奏してくださった。
うまく歌えたかどうかはわからないが、とにかく、気持よく歌うことができて、我ながら驚いた。先日、ある集会に呼ばれて、そこで讃美歌を皆さんと歌ったときのこと、演奏はヒム・プレーヤーであった。間合いに余裕がなく、皆さんヒム・プレーヤーに必死に合わそう合わそうとして努力するが、どういうわけかズレてしまう。機械は決まったとおりにしか演奏ができず、人間の呼吸など考えないから、人間が機械に合わすこととなり、ちっとも気持ちよく歌えない。
演奏者のリードによって、難しい曲も、短い時間で何とか歌えるようにもなる。さて、伴走という言葉もある。これは、ある人に寄り添って、共に走る人のことだ。パラリンピックの陸上競技などに、こうした伴走をされる方がいる。
神様が、私たちの人生に伴走されているといったイメージについては誰もが納得されるだろう。しかし、また、主の伴奏に合わせて、気持よく歌わせてもらう人生もあるのではないだろうか。献身などといったことも、そのような側面もありはしないかと、ふと思った。
平良 師