平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2016年11月6日 イエス様に伴走も伴奏もしていただくうれしさ

2016年11月13日 11時56分33秒 | Weblog
イエス様に伴走も伴奏もしていただくうれしさ

 伴奏が上手なので、歌を気持ちよく歌うことができる。おかげで、当教会の礼拝時の讃美歌は、皆声高らかに気持ちよく歌っている。かつて、フラに合わせてDCGでユー・レイズ・ミー・アップを歌わせてもらったことがある。その時には、ご存じのファゴット奏者NさんとピアノのTさん、それからコントラバスのOさんが伴奏してくださった。
 うまく歌えたかどうかはわからないが、とにかく、気持よく歌うことができて、我ながら驚いた。先日、ある集会に呼ばれて、そこで讃美歌を皆さんと歌ったときのこと、演奏はヒム・プレーヤーであった。間合いに余裕がなく、皆さんヒム・プレーヤーに必死に合わそう合わそうとして努力するが、どういうわけかズレてしまう。機械は決まったとおりにしか演奏ができず、人間の呼吸など考えないから、人間が機械に合わすこととなり、ちっとも気持ちよく歌えない。
 演奏者のリードによって、難しい曲も、短い時間で何とか歌えるようにもなる。さて、伴走という言葉もある。これは、ある人に寄り添って、共に走る人のことだ。パラリンピックの陸上競技などに、こうした伴走をされる方がいる。
 神様が、私たちの人生に伴走されているといったイメージについては誰もが納得されるだろう。しかし、また、主の伴奏に合わせて、気持よく歌わせてもらう人生もあるのではないだろうか。献身などといったことも、そのような側面もありはしないかと、ふと思った。


平良 師

2016年10月30日 正義を主張するときには自己吟味を!

2016年11月13日 11時52分49秒 | Weblog
正義を主張するときには自己吟味を!

 宗教は、一種の阿片であると言われる。はまり込むと気持ちが良すぎて、抜けでなくなる。キリスト教でも、恍惚状態に陥ってしまって、ちょっとそうした気分を味わえる類のものもあるだろう。しかし、多くのキリスト者たちは、神様に多くを委ね自由に生きることを許されていることを知りつつ、それでも教えや使命を意識して、理性的に生きている。
 最近、大麻を所持しているというので逮捕された元芸能人がいて、話題になっている。医療に大麻を使用することを主張して、前回の参議院選挙に立候補した人物でもある。癌に侵され、痛みに苦しむ人に麻薬を投与して、それを和らげるのは結構なことだと思う。大麻には、その他にもいろいろと効能があるということだが、一方で害も指摘されており、暴力団の資金源になっているために、どうしても犯罪との関係が生まれる。
 今日、来日したF国の大統領のあだ名は、暴言王だそうだ。A国の大統領候補のT氏のことを、「あいつは差別主義者だ」と言っているそうだが、どちらも本質的なところはあまり変わらないといった印象である。暴言を吐くだけでも問題がないわけではないが、麻薬組織の人々を平気で殺害していることについては、人権感覚に乏しく、残忍性が高い。
 何事も正義を主張するときには、自分の行いを必ず吟味されるのは必至。医療用大麻使用を推奨してきた元芸能人もF国大統領も、そして、私たちキリスト者も、それは同じなのである。


平良 師

2016年10月23日 主からの賜物も赦しも十分

2016年11月13日 11時46分43秒 | Weblog
主からの賜物も赦しも十分

 言葉によって人は傷つきもするし、励まされたりもする。同じ言葉でも、その運び手によって、心に強く響くこともあれば、そうでもなかったりする。日頃のその人となりを問われているとも言える。しかし、この人となりも、自分が理解している姿が、その人の真実の姿かと言えば、それもまたわからないのである。人の内面は分からない。
 いい加減に見えても、その人は、本当はとてもまじめな方かもしれない。自分を上手にアピールできる人もいれば、それができないで損をしている人もいる。また、この人は罪を犯すような人ではいと思われていた人物でも、人は変わりうるのだというのが聖書が教えていることだ。それほど人間は弱い。
 つまり、人は状況の変化によっていかようにでも変わりうるのである。極端だが、それを拒否すれば生活が危うくなる、命さえもどうなるかわからないということになれば、信念を捨てたり、信仰さえ捨てることもあるし、前言を翻すことも行う。また、色々な誘惑がその人をダメにするケースもある。そもそも誘惑とはちょっとした心の隙間に忍びよるものだ。
 東京都知事のI知事は、高額なお金のやりとりを指摘され、M知事は、公私混同の過ちを犯したということであった。私は、牧師としての知恵をもう少し欲しいとは思う。遅きにあるが、性格的にももうちょっと上品であればとも思う。答えは予想できる。パウロと同じで、「十分だろうが」と、神様は言われるのだろう。


平良 師

2016年10月16日 主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

2016年11月04日 18時49分57秒 | Weblog
主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

詩編30篇5節

「何一つ感謝することがない」と、心の病で入院中の人が言いました。この人は、そのように思っているからこそ、入院しているのでしょう。ウツの原因の1つは、認知の歪みにより、極端に考えてしまうことです。置かれている状況により、先が見えなくなると、気分が落ち込む人もいるでしょう。一方、同じような事情があっても、ウツにならず、困難を耐える力を見出す人もいます。いったい、何が違うのでしょうか。感謝の気持ちによると言っても言い過ぎではないでしょう。大切なことは、小さなことから感謝ができるか、できないか、です。
 極端な考え方に対しては、極端に答えたら良いでしょう。例えば、「何もない」という考えの人に対して、「お部屋は停電ですか」と尋ねると、その人は「いいえ、明かりはついています」と答えました。その人は、電気が使えるだけでも感謝できることに気づきます。またある人は、「今朝、起き上がれませんでしたか」という問いに、病気を抱えながらも、「なんとか起きることができました」と答えます。調子が万全でなくても、今朝の目覚めに感謝できることに気づきます。
 目の前の状況がどうしようもないとき、手に余るとき、誰も助けてくれる人がいないとき。そんなときこそ、「感謝リスト」を書きましょう。最低5つは書いて、いくつになるかを数えましょう。また、私たちは、神様に文句や願い事を遠慮なく吐き出して良いのです。その合間に、神様の前で沈黙を守る一瞬があれば、その中で「あなたは大丈夫」というメッセージが聞こえてきて、「感謝」の気持ちが湧いてくるでしょう。感謝の気持ちに加えて、愛、希望が、少しあれば、十分です。
11月、私たちは何に感謝しましょうか。


L・ハンキンス 師

2016年10月9日 教会は何を選びとっていくのか

2016年11月04日 18時44分37秒 | Weblog
教会は何を選びとっていくのか

 世界中のすべての国々に100の富があったとする。それらをそれぞれの人口に応じて均等に分配すると、ある国が手にしていたものは減るが、ある国は多くを得られるようになる。その結果、餓える人々はいなくなる。しかし、これまで豊かに生活してきた者にとって、この事態は喜ぶべきこととは思われない。
 いわゆる先進国と自負してきた国々は、かつてのような豊かさを享受することはもうできなくなった。なぜなら、これまで後進国とか発展途上国と言われていた国々も、工業化がある程度進み、合わせてかつてのような一方的な搾取に甘んじることはなくなってきたからだ。世界はグローバル化が進み、平均化しつつある。これはよいことだろう。
 そして、そのような世界的な流れのなかで、日本の経済的な上昇率も随分と落ちたということなのだろう。当然あちこちが、縮小を余儀なくされていく。宗教界もその流れの中で影響を受けないということはありえない。この10年のわが連盟の教勢も右肩下がりである。礼拝出席者、教会学校の参加人数、協力伝道献金など、軒並み下がっている。教会によっては、次世代を担うキリスト者たちが与えられないために、たいへんな苦労をされている。
 しかし、時代の潮流がどうであろうと、教会はいつの時代も、キリストのミッションのために最善を尽くすことが求められている。その最善であるが、今の時代、教会は何を選び取っていけばいいのだろう。


平良 師

2016年10月2日 ミッションステートメント(宣教するにあたっての宣言文)の例

2016年11月04日 18時39分11秒 | Weblog
ミッションステートメント(宣教するにあたっての宣言文)の例

 インターネットを利用して、「キリスト教会のミッションステートメント」と検索すると日本でも随分と多くの教会がミッションステートメントを保持していることがわかる。自分たちの教会は何を大切にし、地域でどのような教会として立っていくのかを宣言している。
 私たちの教会は、二ヶ所で一つの教会を形成していくのだから、他の教会に比べるとミッションステートメントを保持する必要性はかなり高いと言える。これを共有することで、二ヶ所でスタイルの違う礼拝を行っていても、幾つものスモールグループやミニストリーの活動をしていても、一つの教会としての歩みをなすことができる。
 広島教会のミッションステートメントは次のようになっている。「私たちは、すべての人に開かれた教会として、地域社会・近隣教会の必要に耳を傾け、豊かな交わりを築いていきます。私たちは、被爆地に立つ教会として、『平和』・『いのちの尊厳』・『和解』が実現するために、世に仕えます。私たちは、次世代を育てる教会として、変革を恐れず、子どもから高齢者まで希望を抱き、成熟した群れとなることを目指します」。
 長崎教会は、「私たちは、7つの目的(礼拝・教育・伝道・奉仕・交わり・祈り・休息)を中心として、神と隣人を愛し、互いに支え合い、キリストの平和を実現する教会を目指します」。百合丘教会「私たちのミッションは、すべての人々をキリスト中心の新しい生き方へと導き、共に成長することである」。


平良 師

2016年9月25日 親切かと聞かれた

2016年11月04日 18時33分12秒 | Weblog
親切かと聞かれた

 世の中には、自然と人に親切にできる人がいる。自分のことで一杯で、人さまのことを考える余裕のない人もいる。少なくとも、人が自らの意志で初めて教会を訪ねる場合、余裕のない時の方が多いのだろう。しかし、教会に来て、イエス様と出会うことで、一切の重荷をイエス様に預け軽くなり、それで心の内に他者のことを思うゆとりや愛が生まれることはある。
 イエス様のなさった善きサマリア人のたとえ話に登場するあの人物は、親切心溢れる好人物だ。見返りも期待せず、サマリア人とは関係のよくないユダヤ人をあそこまで懇ろに扱うのは何故だろうか。それも自分の仕事を一旦中断してのことだった。世の中には、そういう方がいるものだ。それは、キリスト者であろうがなかろうがあまり関係がないように思う。
 自分のことしか考えられない人のことを私は軽蔑できない。私もどちらかというとそうであるからだ。教会では、他者に目を向けることを教えられる。一人でも多くの人に教会に来てもらいたいと願う。教会に、初めての方が来られたときには、教会挙げて歓迎し、その方を喜ぶ。先日、礼拝委員会の企画で、「はじめての方のための主日礼拝」が行われ、20人近くの新来者が礼拝に来られた。
 自分たちのためにこのような礼拝を企画してくれてありがたいと言われた方もおられた。今回は誘われたので来ましたという方々がほとんどであったが、こちら側の歓迎の気持ちをどれほどお伝えできただろうか。


平良 師