平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2007年7月15日 網を降ろしてみないとわからない

2007年09月29日 22時34分12秒 | Weblog
  網を降ろしてみないとわからない

 私には、かねてより密かな願いがあった。それは、この福岡の地でうなぎを釣り上げることだった。幼い頃の思い出はうなぎ釣りに尽きる。そのときのノスタルジアが私の中にはある。しかし、うなぎは稚魚の乱獲で、少なくなっているだけに、天然のうなぎなど、もうそんじょそこらにはいないのでないか、と思われる昨今だ。
 今年、どういうわけか、うなぎを釣ってみたいと思った。6月半ば、夜の9時頃から、とある川で釣り始めた。小さなはぜが一匹釣れただけで、それ以外はあたりらしいものは何もなかった。それから今週、昼間にどしゃぶりの雨が降った日、その夜一月ぶりくらいでまたでかけた。
 雨交じりの中、釣り糸を垂れてみた。竿を二本並べて、あたりを待った。真下に投げ込んでいた竿にあたりがあり、急いで上げると蟹だ。やはりうなぎなどいるはずがない、そう思った。それから、しばらくして上げた竿に、何やらかかっている。小さなうなぎだ。念願のうなぎである。この川にうなぎが上ってきている。それが嬉しかった。
 それから、さらに二匹、そのうちの一匹は、食べられるサイズだった。私の念願は、福岡に来て、30年目にようやく叶えられた。正直なところ、ノスタルジアの思いだけで釣り糸を垂れていたのであり、うなぎがほんとうに釣れるなど、2割ほどの期待感しかなかった。これとても網を降ろす作業があって体験できたのだった。伝道の業は、もっと多くを期待できる。


平良師

2007年7月8日 これからの教会の課題

2007年09月22日 23時50分25秒 | Weblog
 これからの教会の課題―ハード面・ソフト面

 私たちの教会は、2007年度に入り、100名ほどの礼拝人数となっているが、建物の許容量からして、これ以上の礼拝人数を望むなら、後ろのドアを開け放すか、多目的ルームにスクリーンを設置するか、礼拝の数を増やすか、などの措置が必要である。実際、このことは2007年度の課題でもあるし、先週の常会でも話し合ったとおりである。
 しかし、一方で、こうしたハード面を考えると共に、ソフト面をどうするかも同時並行的に考える必要がある。例えば、教会の広がりが増せば、互いの人間関係は希薄になってくる。教会の動きも見えにくくなる。
 そこで、まず、教会の宣教活動に関する情報をできるだけ正確に、多くの人々と共有しなければならないだろう。そのために、細かなところまで情報が行き届くように、情報提供のシステムを検討すること。また、人間関係が生まれる場面を増やす必要が生じる。
 今年度は、そのために、集会委員会を作り、年齢別集会と地区別集会を行うことにしている。証しや奨励を行い、会員相互の理解と交流、相互牧会、御言葉の分かち合い、などを行う。そこには、求道中の方々や新来者なども来られる。
 つまり、教会の入り口や受け皿は、いくつでも作っておくことが必要である。また、ある大きな教会では、「お変わりありませんか。何か祈って欲しいことはありますか。牧師か、スタッフに伝えたいことはありませんか。」などを、スタッフの誰かが定期的に電話で聞いているそうだ。


平良師

2007年7月1日 これから始まる旅

2007年09月15日 21時36分15秒 | Weblog
 これから始まる旅―教役者会研修会に参加して―

 私にとって今回が初めてだった日本バプテスト連盟の教役者会研修会・総会に参加できたことを平尾教会の皆さんに感謝します。研修会会場は韓国のプサンよりも遠い群馬県でした。東京から新幹線で1時間半の距離、東北上越線の上毛高原駅だったので高いところに位置したことは予想できました。電車を降りてから肌寒さを感じるくらい涼しかったです。夏場に天然クーラーがついたようでした。
 それで、私は初めての東北の群馬がすぐさま好きになりました。研修会に参加された人数は約65名ほどでした。2年前、新卒研修会で知りあった同僚たちに会って懐かしかったです。教役者会には、まだ平尾で2年目なので、初々しく今回の研修会に臨みました。自分に何か学ぶことがあればと期待しました。 
 期待通り、よい研修でよい学びができました。研修会の主題は「平和を作り出す教会の霊性」でした。 大戦中のドイツ教会の話(ボンヘッファー)が主でした。2日目はミッション・スタディツアーで安中教会(群馬県での最初のキリスト教会)を訪問しました。
 反戦・非戦の平和を唱えた歴代牧師の肖像が教会の会堂に飾ってありました。その他、食事も豪華で美味しかったです。山中でタラバ蟹の食べ放題でした。食事を囲んだ他の教会の牧師との交わりも豊かにできました。
 福岡に帰るとき、私はもっと日本と韓国とアジアとの隔たりを見直したいと思いました。具体的に自分に何ができるかは白紙です。
 とりあえず、私は日韓の様々な関わりをより深く学びたいと思いました。それにもっとアジアが共存できるような道(関わり)を開拓したいなと思いました。
 私は主イエス・キリストにより得られる平和と平安をお互いに分かち合えるように努めたいです。まだまだ自分の考えは抽象的だと思います。しかし、確かに今回の研修は自分への新たなチャレンジのきっかけとなりました。
 つまるところ、今回の研修は自分の旅が終わるどころか、後がまったく見えない旅の始まりとなりました。そして、私をさらに遠くへ旅させる神様の恵みを感じました。


張 師

2007年6月24日 平尾教会が子どもたちと一緒に礼拝を守る理由

2007年09月13日 23時36分10秒 | Weblog
 平尾教会が子どもたちと一緒に礼拝を守る理由

 平尾教会は、子どもたちと一緒に礼拝を守ることを選んでいる。イエス様の時代、イエス様のお話を聞いていた群衆の中に、子どもたちも含まれていた。あるとき、イエス様に祝福してもらおうと、子どもたちを連れて来た大人たちがいた。弟子たちは、彼らを叱り追い返そうとしたが、イエス様は、逆に弟子たちに憤られ、子どもたちを自分のところへ来させなさいと言われた。
 そして、神の国はこのような者たちのものだと言われて、手を置いて祝福された。私は、この聖書の箇所から大きな励ましをいただいている。彼らを追い返そうとした弟子たちは、何かを懸念したのである。弟子たちは、イエス様のことを考えてのことだったのだろう。
 しかし、それは、イエス様の願うことではなかった。イエス様は、子どもたちがイエス様のところへ来ることを願われたのである。そのときは、弟子たちにとっては、何かと差し障りを感じる状況だったが、イエス様には、子どもたちが、自分のところに来ることの方が大切だった。全年齢層の一つの礼拝は、集っている人々が互いに忍耐を必要とする。
 欲する静けさ、楽しさ、速さも年齢によってまちまちである。大人の礼拝に出席しているのでも、子どもの礼拝に出席しているのでもない。全年齢層にとって、この礼拝は自分の礼拝であり、主のための礼拝だ。主は、全年齢層で守っているこの礼拝の形式を喜ばれていると私たちは信じている。この礼拝には造る喜びがある。


平良師

2007年6月17日 集会から_証しの力

2007年09月09日 13時06分06秒 | Weblog
    集会から_証しの力

 今回の特別伝道集会において、私自身が、渡辺暢雄先生からいくつかのチャレンジを受けたので、そのことを記しておきたいと思う。先生は、巡回伝道者として立っておられ、機会があれば、イエス・キリストを、いつでも、とこでも宣べ伝えようとなさっている。
 先生は、いろいろな事柄を神様との関係において、捉えようとなさり、その中に福音を見出そうとされている。具体的な神様からのしるしをたくさんお持ちで、その証しを私たちにも分かち合ってくださる。そのお証しが、私たちの心を揺さぶる。私はまずそうした先生の姿勢に教えられた。
 今回、渡辺先生にお越しいただいて、どんなにか私たちは恵まれたことだろう。また、説教のお話もさることながら、神様は先生を通して、キリスト者には、新たなる献身の思いを、まだの方には、バプテスマを受けて、キリスト者となることを促された。そして、それぞれは、主に招かれ、応答したのであった。私は、主の御業をもっともっと目を凝らして見ないといけない、数えたいとも思った。
 私たちの教会に神様はこれまで多くの御業を成してくださってきたのに、私の数え方は、まだまだ足りなかった。渡辺先生は、神様の御業やしるしに敏感である。それに比べると、私などは、見ても見ず、聞いても聞こえずで来たように思う。教会の上にも、個人的にも、証しの出来事は多くあるのだから、もっとそのことに目をとめ、喜び、分かち合うことが必要だと思った。


平良師

2007年6月10日 キリストの教会へようこそ

2007年09月01日 16時52分30秒 | Weblog
  キリストの教会へようこそ

 教会は、イエス・キリストの教会です。今日、初めて教会を訪れてくださった方々も、イエス・キリストが呼び集めてくださいました。私たちは、皆さんをお迎えできたことを神様に感謝しています。
 教会にお越しくださった一人ひとりに神様が働いてくださったと信じています。具体的には、誰かのお誘いがあってのことだったと言われるかもしれません。その他に、案内状を受け取られた、チラシやポスター、ホームページをご覧になった、そういう方々でおありだったと思います。
 しかし、教会に行ってみようという気持ちに導いてくださったのは、神様だったのです。そして、それは、福音にあずかるためでした。福音というのは、良い知らせ、良きおとずれという意味ですが、聖書には、そうしたうれしい喜びの内容が、ぎっしりと詰まっています。
 その一番は、神様は私たちを愛してやまないお方なのだという知らせです。そして、そのことは、イエス・キリストの十字架によって示されたのでした。二千年前にイエス様が十字架におつきになったのは、神様が私たち人間の罪を赦すためでした。
 しかし、多くの人々が、自分が神様から遠く離れた罪ある者であることを知りません。また、そんな私でも神様がどんなに愛しているか、わからないのです。
 そして、それらのことは、聖書を通してでなければ理解できません。その意味で、今日が、神様を知るという実に新鮮かつ貴重な時となられることをお祈りいたします。


 平良師