平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2007年9月9日 二部礼拝の可能性

2007年11月30日 17時41分49秒 | Weblog
   二部礼拝の可能性

 礼拝時に7月から後ろの扉を開け放して、いすを30脚ほど増やしている。150席となった礼拝堂に100名ほどの人々が集っている。前から見ると、約7割だが礼拝堂はいっぱいの感じである。もちろん、詰めるとあと50人は座れるが、ただし、空調の問題、二階からの声が聞こえてきたりで、やはり扉を閉めて礼拝を守りたいという方々もおられよう。
 そこで、二部礼拝の可能性である。例えば、一部を朝の9時から10時まで行う。一部には、子ども讃美、子ども説教は入れず、1時間程度の礼拝を行う。二部は、従来どおりだが、さらに、若者向けの賛美なども極力取り入れて行う。そして、教会学校は、一部と二部共通で、10時10分から10時40分として、ニ部の礼拝は、10時45分から12時15分まで。
 だから、礼拝だけを守りたい方は、朝の9時からの礼拝に。子どもと一緒にまもりたい方、また、昼食時の交わりも行いたい方は、ニ部の礼拝に出席すればよいことになる。
 ただし、第一主日だけは、主の晩餐を一緒にまもりたいので、後ろを開け放って、合同で行う。説教は同じ牧師が同じ内容で。奏楽者は基本的には同じだが、ニ部では子ども讃美、若者向けの讃美なども入る。
 ニつの礼拝となると奉仕者の数がさらに必要となり、これまで、朝10時くらいに来ていたのに、9時前に来なくてはならない人も出てくる。その代わり、午後に余裕が生まれ、家族の時間、委員会、諸活動に十分な時間がとれる。
 (一例である)


平良師

2007年9月2日 現実の世界にしっかりと生きる

2007年11月24日 17時16分01秒 | Weblog
 現実の世界にしっかりと生きる

 子どもたちには、子どもたちなりの世界がある。それは、現実離れしているが、楽しく夢がある世界だ。そして、子どもたちのこうした世界は、彼らの成長からしても実に大事にされなければならないのである。
 先日、5歳のH君に「もうすぐ二学期が始まるね」と言ったら、「オレ、二学期は嫌いなんだ」と言った。そのわけを尋ねると「黒鬼が来るから」と言う。H君の幼稚園では、毎年豆まきがあって、現れる黒鬼が大暴れをするらしい。それが怖いという。三学期と間違っていたのだが、それは子どもの時間感覚だから致し方ない。
 その幼稚園は、子どもたちに、三年間四季折々の行事や生活を通して、ある世界を提供している。子どもたちは、その世界に生きている。たいしたものである。しかし、私たちキリスト者も聖書の示す世界に生きていて、同じと思われるところも少なからずある。違うのは何か。
 それは、私たちは信仰の世界と現実の世界を識別し、現実の世界をどう信仰の世界で生きていくかという問題をしっかりと捉えていることだろう。現実から逃れるのではなく、現実の世界にしっかりと信仰者として関わっていくことである。
 それが、イエス様から「あなたがたは地の塩である・・世の光である」と言われる所以だろうと思う。また、そうであるように努めるのである。イエス様のお語りになった神の国は、現実の世界を信仰の目で見ると、どのように見えてくるかを示されたのだと思う。


平良師

2007年8月26日 地球環境を取り戻すことは心を取り戻すこと

2007年11月20日 17時09分37秒 | Weblog
地球環境を取り戻すことは心を取り戻すこと

 この夏の猛暑でクーラーなど、電気の消費量が増えた。昨日、東京は、この夏一番の電気の消費量を記録し、停電の恐れもでてきたため、官公庁では節電をし、電力会社もいくつかの企業に工場の操業をストップしてもらったとのことだ。
 世界の異常気象に地球温暖化が作用していることを、今や誰もが実感するところまで来たが、もうどうすることもできないのだろうか。地球環境のバランスが崩れてしまった結果、こういう事態になった。健康は、バランスのとれた食事から、というが、地球の健康も同じ。
 何かが、突出して増えてしまえば、それまでの秩序が崩れるのである。二酸化炭素が増え過ぎて、地球温暖化になっているのであれば、それを減らすしかない。二酸化炭素を減らすには、工場や車、家庭が二酸化炭素を排出しないように努める。素人考えだが、あらゆるスピードを地球規模で緩めることをやってみてはどうか。
 1ケ月ほど、地球のすべての生産活動を「一斉の」で停止してみたらどうだろうか。何十年もの積み重ねで、こういう状態になったのだから、それは1ケ月ほどの努力では何も変わらないかもしれない。しかし、試みる価値はある。
 そして、不便さにも我慢する。スピード化と便利さに拍車をかけるあらゆるものに1月ほど手を触れない。そうすると、地球環境だけでなく、人間の心も何かを取り戻せるかもしれない。すべてとまでは言わないまでも、世界規模で悔い改めが必要な時代だ。


平良師

2007年8月19日 伝道を楽しみとする

2007年11月04日 22時20分18秒 | Weblog
   伝道を楽しみとする

 教会の楽しみをどこに見出すだろう。教会の楽しみは、伝道の業に見出すと答えられるキリスト者たちの多いことを信じたい。そして、その伝道の場の第一は、礼拝だ。礼拝は伝道の最良の機会である。
 だから、礼拝に出席した者たちは、心を一つにしてその日の礼拝のために祈る。メッセージをする牧師は、その責任を思い、準備と祈りをもって礼拝に臨むことが求められる。司会者、奏楽者、その他の礼拝奉仕者の務めの一つひとつが、準備されたものであることが望ましい。礼拝は、神様に奉げられるものであるから、最良のものでありたい。
 そして、そこにおいて、キリスト者の信仰も、神様が、イエス・キリストがどのようなお方なのかも明らかになるのである。ところで、伝道の業は、教会内だけで行われるのではなく、それぞれの生活の場でもなされる。家族に対してもなされる。友人に対してもなされる。職場の仲間に対しても。私たちは、伝道するときに、自分が何者であるかを強く実感でき、キリスト者としての必要な多くが備えられる。
 それは、神様に祈ることであり、委ねることであり、従うことである。そして、そこには強い愛が生まれている。伝道するときに、する者がまず福音にあずかっている。伝道という外へ向かっての働きの中に、楽しみを見出していったのが、初代教会の人々であった。それは何も、初代教会の人々だけではなく、そこにキリスト者の基本としての姿が示されていたのである。


  平良師