平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2007年8月5日 伝道隊派遣に思う

2007年10月25日 21時49分49秒 | Weblog
    伝道隊派遣に思う

 教会が音楽伝道隊を派遣するのは、私が平尾教会の牧師になってからは初めてのことである。前の教会のときには、伝道隊を受け入れることは多々あった。
 夏は避暑地で、富士山の麓の風光明媚なところだったから、東京や神奈川の教会や連合に夏期キャンプなどで利用していただいたが、伝道隊を組んで、奉仕に来てくださったグループもひと夏に1つはあっただろうか。空き地の草刈やチラシの配布、伝道集会をしてくださった教会もあった。
 そして、奉仕をした側も喜んで帰っていかれた。私は、あのときほど、他の教会からおぼえられていることをありがたいと思ったことはない。おぼえられていることに感謝し、励ましを受けたのである。おそらくきっと、奉仕に行く教会も、それを受け入れる教会も共に、主にあって伝道する喜びにあずかることだろう。
 そういった意味では、今回の国分教会への伝道隊とマウマウタン先生を初めとするあちらの教会員とのうれしい交流があることを期待したい。それにしても、受け入れる側はそれなりに準備がたいへんであるから、私たちの教会は、国分教会に本当に感謝している。
 また、聖歌隊やジュニアチャイムの方々の奉仕も喜んでいただけることだろう。パウロは「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(ローマ1:12)と言っている。主にある交わりを許された私たちの協力伝道は、このようでありたい。


  平良師

2007年7月29日 ビッグ・イッシュー日本版

2007年10月23日 22時45分44秒 | Weblog
   ビッグ・イッシュー日本版

 天神などで『ビッグ・イッシュー日本版』という週刊誌のような雑誌を売っている人たちに出会われたことはないだろうか。これはホームレスの人たちの自立を支援するNPOが発行している隔週の雑誌で、定価は200円だ。しかし、それを一冊売れば、110円が販売しているホームレスの人の収入になる。
 偶然買った74号(2007.6.15)には、私の説教の中でもふれた、昨年訪れることのできたケニアのマトマイニ(スワヒリ語で「希望」を意味する)孤児院を支えている菊本照子さんのことが書かれていて驚いた。隠れたところで社会に貢献している人を表彰する吉川英治文化賞を受賞された、という記事であった。
 さらに75号(2007.7.1)では、昨年同じときにケニアのナイロビ動物孤児院で偶然出会った女性獣医の滝田明日香さんのことが書かれていて、またまた驚いた。彼女はマサイ族の人たちの牛の巡回診療をしながら、アフリカの野生動物保護に力を注いでいる。「サファリに行ったとき、ルートをはずれて動物を車で追っかけてサバンナを荒らすようなことは決してしないでくださいね」という彼女の優しい声が、今も耳に残っている。
 そしてこの雑誌には、西南学院大学神学部キリスト教人文学コース卒業生の香月真理子さんのルポルタージュが定期的に掲載されている。彼女はホームレスの人たちの生き様と彼らとの交流を的確な文章で綴ってくれている。
 『論座』(朝日新聞社)にも最近三回彼女のルポが連載されていた。八年前、彼女は卒業のときに、「神学部には、本当になんにもなかった」「私は今、これといった骨格も基盤もなく今にも解体してしまいそうなこの『世の中』と共に揺らぐこと、そして時に共倒れそうになりながらも『世の中』に寄り添い、そこに生きる人々の姿をしっかりと見つめて小説の中に描いていくことこそが自分の使命であると信じている。が、結局のところ、なんにもない中に存在していたとてつもない力とは何だったのか、そこに向かって、哀しいあがきを繰り返しているに過ぎないのかも知れない」と書いていた。
 まだ小説家になる夢は捨ててはいないが、しかし底辺の人々とともに生きるという「視座」を彼女が神学部で獲得してくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。

  『ビッグ・イッシュー』を売っている人に出会ったら、ぜひ購入してあげてください。


青野師

2007年7月22日 霊性が強められることを願うなら

2007年10月22日 21時56分42秒 | Weblog
  霊性が強められることを願うなら

 キリストに従う人々は、霊的にも成長しようと努める。そのために、祈り、聖書を読み、黙想し、中には、断食をされる方もいる。その中で、いろいろと神秘体験をされる方もいる。
 しかし、私は、霊的な成長を得たいと思うなら、教会に人を誘うことはかなり優れた方法の一つであると考えている。キリスト者は、人を教会に誘うときに、その人が如何にキリストに従う者かを証しするのである。同時に霊的にも強められるのである。
 来て欲しい人のことを執り成し、祈る中で、霊的な成長を得られる。その人に、主を告白する中で、霊的な成長を得られる。私たちは、主に人を導くときに、新たに主との関係を意識し、力をいただくのである。
 それは、証しのときである。それは、試されるときでもある。人を教会に誘うとき、自分がキリスト者であることを証しできるのである。私たちは日常生活において、主を証しする機会をどのように設けているだろうか。
 品行方正な姿は、確かに証しになるだろう。しかし、利己的というのではなく、解放された自由な生き方もまた証しとなるだろう。数々の証しになる姿がある。しかし、ストレートに主を語る姿以上に、証しとなるものはない。
 このとき、語る者の心のうちには燃えるものが湧き出る。否、上からの霊的な充満をいただくのである。私たちは霊性の強化を願うなら、祈ることは言うに及ばず、人を教会に誘うこと、つまり、伝道することはかなり有効なことに違いない。


平良 師