平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2009年2月15日 親しみをおぼえる人

2009年03月22日 13時10分10秒 | Weblog
    親しみをおぼえる人

 これほど親しみをおぼえる人を知らない。「ほんとうは、自分は賛成じゃなかったんだもんなあ・・」と言うのは、ある国の首相である。かつてこの国の人々は、ある政策を主張するこの首相たちに一票を投じ、彼らは、三分の二以上の議員数を確保して政権をとった。

 ところが、今ごろになって、あの政策には、実は、自分は反対だったんだ、などと平気な顔で嘯いている。国民に対する裏切り行為もはなはだしい。親しみを感じてしまうのは私だけか。首相と言えば、国の長で、とても遠い人というのが、今までの印象だったが、いやあ、これほど親しみを感じる人もいない。

 私たちが、神様の前に立たされたとき、この人のように、ほんとうはこうだったんですよ、本意ではなかったんです、間がさしたというか・・そんなふうに言うのかもしれない。だから妙に親しみを感じるのではないか。この人のことをお坊ちゃまとか、若様とか、ボンボンとか、水戸黄門に登場する悪代官などと悪口を言う人がいるが、そうじゃないような気がする。

 この人は実は純粋で善良な人なのではないだろうか。そうでなければ、これほどにボロが次から次に出るはずがない。最近、国会中継が楽しみでならないという人が増えていると聞く。今度は、どんな発言が飛び出すのか、ワクワクするんだそうだ。支持率もこれ以上下がりようがないところまできてしまった。すがりつくべきものは権力ではなく、真の神様だと知って欲しいものだ。


平良師

2009年2月8日 百年に一度の大恐慌といわれるが…

2009年03月14日 18時02分52秒 | Weblog
  百年に一度の大恐慌といわれるが…

 いま、日本では極端に貧しい人たち、職場を失ったり、あるいは就職できない人たちが急増してきた。これはかなり長い間続いてきた世界的な現象でもあって、人類にとって由々しい問題である。ただ、戦後ひもじい思いを経験したものにとっては、食物に限っていえば、60年前(敗戦後の数年)と比べて深刻な事態とはいえない。現在の日本は食料の自給率が40%以下となっており、将来が危ぶまれるともいわれている。

 戦後の日本は食糧の自給率は100パーセントで輸入品は零に近かったと考えられる。大都市の日本人は狭い土地を耕し、野菜・根菜を育てて食用に役立てていたのである。町を歩いても、テレビを見ていても食物は町にあふれているといってよい。貧困家庭があり、ホームレスの人が増えており、病人が適切な医療を受けられない状態など、GNPの高い日本としては恥ずかしい限りである。

 政治家・経済界などをはじめとし、日本人全体が精一杯努力すれば、今すぐにでも困窮している人たちの状態を好転させる余力はあると思われる。世界に目を向け、襟を正して全人類と共に歩む姿勢を持つべきではないだろうか。

 金融や科学・産業なども大切な問題であるが、今こそ私たちは神に目を向け、神の御心を少しでも見極め、人間とは何かをじっくりと考える必要があると思う。


松村 師

2009年2月1日 プロとアマ

2009年03月07日 15時04分15秒 | Weblog
      プロとアマ

 プロとアマの違いはどこにあるのか。それは、いくつもの説明が可能であろう。

 プロは、それにより生計を立てており、アマは、そうではない。プロは、責任を負っており、アマはそうではない。プロは、仕事にこだわりがあるが、アマはそれほどではない。プロは、これによりどのような結果が生じるかをある程度予測できるが、アマは、それほどではない。プロは、全体的な見通しのなかでことを行っているが、アマは、それほどではない。プロは、徹底的に行うこともできるが、アマはそうでもない。プロは、切れ味が鋭いが、アマはそれほどでもない。プロはその道の哲学を持つまでに至っているが、アマはそこまでではない。

 ところで、キリスト者にとって、プロフェッショナルとはどういうことか。聖書の内容に精通していることか、祈りの言葉に富んでいることか、奉仕をよくすることか、否、おそらくいずれも違うような気がする。何事においても、プロになれない自分を良く知っており、それゆえになお神様に我が身を委ねることしかできない、そのような者ではないだろうか。

 最後に、牧師としてのプロ意識、それもバプテスト派のそれについて述べたい。状況の如何にかかわらず自分は牧師だと錯覚しているのが、アマ、神様と教会の信徒が立てている限りにおいて牧師だと認識しているのがプロ。他にもいろいろあるが、自分はどうかと聞かれると、残念ながらまだまだアマ(甘)いとだけは言えそうだ。


平良師

2009年1月25日 鶴瓶の家族バンザイを見て

2009年03月01日 13時44分29秒 | Weblog
    鶴瓶の家族バンザイを見て

 どういった番組なのか、よくわからないけれどもおもしろいと思った。落語家の鶴瓶が、地方の町や村々を巡り歩き、そこで出会った人、その家族を紹介するというものだ。NHK総合夜8時の番組にしてはとても地味なものだった。同じようなものに民放で、普通のお宅に俳優が泊めてもらう、という番組があるが、趣がまた一味違う。

 最初に、この番組は何の計画もないままにやっています、といった内容が字幕でアナウンスされる。あらかじめどのようなものを撮るとかは決めずに、おそらく、その土地に行って出会った人とのやりとりをずっと撮影して、最後に、適当に編集をしているのだろう。その出会いの仕方が、まったく自然で、鶴瓶も普通の人のようにして語り合う姿は、平凡な日常そのままで、ドラマも何もないのだが、鶴瓶の突っ込みがおもしろく、登場人物の人となりを味のある形で引き出す。

 それは、結構よくある会話であり、風景であるため、視聴者の共感を得るといった点では成功している。逆に、いかに、私たちが、作られた映像を毎日見ているかだ。といっても、この番組とて、自然さをより強く打ち出すための工夫をあちらこちらでしているということは考えられる。

 イエス様と出会った人物で、イエス様が結構突っ込んで会話を交わしているのが、サマリアの女である。イエス様は、この女性に限らず、その人の本質的な問題をすぐに見抜いた。瞬く間に、深いところの出会いがなされた。


平良師