50歳を迎えて
50歳になった。子どもたちが、「お父さんは前のように叱らなくなった」と言う。これは衰えを表す一材料だろうか。頭の髪がさらに薄くなった。これもそうだろうか。とんでもない物忘れをしでかすようになった。これもそうか。これからは努力が必要となる。手帳に、物忘れをしないよう、まめにメモをとること。そんなことを考える。
私にあとこの世で残されている年月はどれくらいなのだろうか。平均寿命もあてにはならない。神様は、それぞれにこの世での持ち時間をお決めになっている。もし、それがわかれば、これからの人生設計も充実するのだがと考える人もいよう。
否、そのようなことは分からない方がいいのかもしれない。ある日、目が覚めたら、この世の人々との別れの挨拶もなしで、天国にいた、そんな感じがいいのかもしれない。
否、否、挨拶くらいはしたいものだ。という具合で、ちょっとずつちょっとずつ、私も人並みに、死というものについて、思いを巡らすようになった。
スペインだったか、どこかの国の諺らしきものに、メメントモリというのがある。「死をおぼえよ」という意味だ。いつまでもこの世で生きるものと、錯覚してもならないのだろう。
しかし、一方において、「明日のことまで思い悩むな」というイエス様のお言葉もある。神様はちゃんと考えてくださっておられる。ケセラセラ、「なるようになる」わけだ。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」これこそ真理である。
平良 師
50歳になった。子どもたちが、「お父さんは前のように叱らなくなった」と言う。これは衰えを表す一材料だろうか。頭の髪がさらに薄くなった。これもそうだろうか。とんでもない物忘れをしでかすようになった。これもそうか。これからは努力が必要となる。手帳に、物忘れをしないよう、まめにメモをとること。そんなことを考える。
私にあとこの世で残されている年月はどれくらいなのだろうか。平均寿命もあてにはならない。神様は、それぞれにこの世での持ち時間をお決めになっている。もし、それがわかれば、これからの人生設計も充実するのだがと考える人もいよう。
否、そのようなことは分からない方がいいのかもしれない。ある日、目が覚めたら、この世の人々との別れの挨拶もなしで、天国にいた、そんな感じがいいのかもしれない。
否、否、挨拶くらいはしたいものだ。という具合で、ちょっとずつちょっとずつ、私も人並みに、死というものについて、思いを巡らすようになった。
スペインだったか、どこかの国の諺らしきものに、メメントモリというのがある。「死をおぼえよ」という意味だ。いつまでもこの世で生きるものと、錯覚してもならないのだろう。
しかし、一方において、「明日のことまで思い悩むな」というイエス様のお言葉もある。神様はちゃんと考えてくださっておられる。ケセラセラ、「なるようになる」わけだ。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」これこそ真理である。
平良 師