平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2019年2月10日 愛しているのに

2019年02月27日 22時36分51秒 | Weblog
愛しているのに

 韓国ドラマを NHK が放映するようになったその最初は、「冬のソナタ」だったと思う。あれから、何本かの韓流ドラ マが放映されたが、どれもこれも楽しく見させてもらってきた。今は、「オクニョ」を毎週楽しみにしている。
 しかし、「冬のソナタ」を超えるものに出会ったとは思わない。あの哀愁漂う空気は何とも言えない。ミーハーと言われようとも、そう思うのだから仕方ない。私の中では、「冬のソナタ」は別名「悲劇のサンヒョク物語」となっている。
 毎回、ああ哀れ、サンヒョク、今日もだめだったね、と私は心の中でつぶやいていた。よせばいいのに、彼はユジンを愛している。ユジンは、ミニョンを愛している。ミニョンもユジンを愛している。サンヒョク、君はどうすることもできないのだよ、とテレビを見ている者はつぶやいていたはずだ。愛している者に愛されないというのは、何とつらいことだろう。サンヒョクは、いたるところで忍耐を強いられる。 神様は、創造された人間の一人一人を愛して命を吹き込まれた。
 人間は神のものである。しかし、その人間は、神様を愛しているだろうか。神様に喜ばれるような生き方もしているだろうか。神様は、忍耐して自分に戻ることを願っ ておられる。それじゃあ、神様はサンヒョクなのか。それは違う。ユジンは、サンヒョクが創造したものではない。ユ ジンもまた、同じ神様の創造物。愛している者から愛されたら幸せに決まっている。愛は忍耐なんだなあ。


平良牧師

2019年2月3日 リベラルを可能に

2019年02月11日 22時28分59秒 | Weblog
リベラルを可能に

 二つの場所で宣教活動をしている私たちの教会の課題は、はっきりしている。一つは、それぞれの礼拝を守っている者たちの意識のズレである。私たちの教会は、一つの群れであるが、この形式が持っている利点について、共通認識を持ち得ているか。
 これは、自ずと生まれている違いを互いに理解し、受け入れることで、自分自身が変えられ、豊かにされていくこと、真実に解放され自由にされることへの喜びを味わうことができることである。そして、ミニストリーといった形で、自分の賜物を生かし、興味の持てるやり方で、教会の宣教活動を展開することも、教会のかかわりをより積極的なものにすることにつなげている。
 リベラルという言葉があるが、私たちの教会は、スーパーリベラルかもしれない。聖書理解や福音理解、礼拝スタイルについて、これだけの幅を持たせている教会もない。だから難しい。また、こひつじの園ランチカフェのように、地域の方々の幅広い参加により、結果として、教会の裾野は広がり、地域との接点があちこちに生まれている。
 そして、それは、教会の証しとなり、信用にもなっている。これから、二箇所で宣教活動を行っている一つの教会の群れは、教会を造り上げるための組織改革をとおして、すべての事柄を同じ土俵で考えたり、感じたりできるようになるだろう。何を大事にし、何に時間を費やすのか、また、選び取るものは何か、シンプルにすべきものがたくさんある。


平良憲誠 主任牧師

2019年1月27日 聖書が教える逆説を生きる

2019年02月07日 22時43分38秒 | Weblog
聖書が教える逆説を生きる

 ものの見方や考え方を教えてもらっているが、気がつけば、この世が認める方法や扱い方で事柄を行っていることの何と多いことだろう。人に対する 評価もそうである。イエス様は、人をどのように見ていたであろうか。魚をどれだけたくさん捕獲するかに意欲と関心を示し、おそらくそれだけを毎日の希望に据えて、生活をしていたペトロ たち漁師をイエス様は弟子たちの中心的な人物として選ばれた。
 お前たちをこれからは人間を獲る漁師にするというのだ。おそらく無学な人々であった。かつて、テロを起こし甚大な被害を多くの人々に与えたある教祖は、優秀な人材を幹部に集めていた。イエス様は、ローマの手先となり法外に税金をユダヤの庶民から集めていたため、社会の鼻つまみ者となっていた徴税人ザアカイの家に、友人として泊まった。
 彼は説教をされたわけではなかったけれど、心を入れ替え、所有していたお金を何倍かにして集めた人々に戻すと言った。ところが、清く正しく生きていると自負していた律法学者やファリサ派の人々には、偽善者よと厳しかった。彼らは、人々を罪に定めるのを生き甲斐にしているところがあった。
 聖書には逆説が多く語られているが、その逆説を生きることはなかなか難しい。日常生活のなかでこそ、逆説を生きよとイエス様は教えられる。イエス様によって、自由で解放された生き方が我々にはある。


平良牧師

2019年1月20日 私たちはバプテスト

2019年02月01日 22時34分47秒 | Weblog
私たちはバプテスト

 私たちの教派は、バプテストだ。各個教会も自立しているが、信徒たち一人一人が自立している。万人祭司であるこの群れは、牧師と一般信徒の身分的な隔てはない。説教だって、教会の委託があれば信徒が行うこともできる。牧会も相互で行い、決して牧師の専売特許ではない。
 私が19歳のときに、教会のある執事は、連盟の総会を見てきなさいと言って、参加費、旅費すべてを私にカンパしてくださった。そのときの連盟総会の印象は鮮烈で今でも克明におぼえている。信徒は、先輩たちの後姿を見て育てられる。教会は、すったもんだも絶えないがおもしろい所ではある。中学教員として、福岡にやってきた翌年に、私は執事に選ばれ、財務を担当することになった。
 そのとき、私は牧師の給与が自分の初任給よりも低いのを見て、愕然とした。それで、総会のときに、ひとり数千円の月約献金のアップをお願いした。私は、自分よりも年上の人たちの献金姿勢を見て、そんなはずはないと思った。40年前の話だ。一年後、献金総額は、大幅な増加に転じた。牧師が、献金の話をするのは関係性の問題もあり、誤解されたりするので難しいが、執事や信徒がするのはそれほどのことはない。
 執事は、牧師と共に教会運営にあたっている。教会規則上は、宗教法人平尾バプテスト教会の責任役員である。そして、その執事たちは、教会の選挙で選ばれる。お人柄もだが、 まずは教会生活をしっかりとおくっているかが問われる。


平良牧師