平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2014年3月23日 すべて自分に跳ね返ってくる

2014年03月29日 22時35分20秒 | Weblog
すべて自分に跳ね返ってくる

 「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」、とパウロはガラテヤ書1・8において語っているが、何と狭量で排他的なことを言う人だろうという印象をもつ人も多いことだろう。
 しかしこれは真空状態で語られた言葉ではなく、パウロたちに向けて、「あなたたちの<十字架のキリスト>を伝える宣教のわざは呪われている」(ガラテヤ3・13参照)という、反対者たちがなした罵倒が背景にある言葉なのである。つまり、イエスさまの、「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7・2)という言葉が現実となっているのだという、パウロの認識を示していると言ってよいだろう。
 安部首相がNHKの経営委員に選んだ百田尚樹氏が、都知事選での田母神・元自衛隊航空幕僚長の応援演説で、「彼以外の候補者はみな人間のくずだ」と言い放ったことは記憶に新しいが、実はここでも同様の逆転が起こっている。
 つまり、他の人の尊厳を無視してその人を「人間のくず」だと言うような人こそ、まさに「人間のくず」以外の何物でもない、ということが顕わになっているのだ。そういうことを平気で言えるような人を公共放送の重要な役職に任命する首相もどうかしていると思うが、しかし自らの私的諮問機関である安保法制懇談会の委員には「空疎な議論をしている人は排除している」という最近の安部首相の言葉を聞くと、ああ彼もやはり自分とは異なった考えを「空疎」と言い放つほどに「空疎」な人なんだな、と思わざるを得ないでいる。
 自分がどんな考え方をして他の人を批判しているのか、その批判はすべて、神の前においては、そのまま自分に跳ね返ってくるのだ、ということを深く銘記しておきたいと思わされることの多い最近の日々である。

青野師

2014年3月16日 あの大震災から3年

2014年03月22日 10時24分34秒 | Weblog
あの大震災から3年

 未曾有の大震災から、3年が経過した。前にも話したが、あの日は、ある方のお見舞いに行く途中だった。カーナビを見ていた私と松村先生は、最初、「あれは、いつの頃の、どの国の映像なのでしょうね」、と呑気なことを言っていたことを思い出す。それが、否、今現実に起こっている映像であることを知ったとき、たいへんなショックだった。
 あれから3年が経ったが、どの程度の復興がなされてきたのか。そして、人々の心は、どの程度癒されてきたのか、見当もつかない。私たちも、とりあえず今年の3月までは募金活動をしようとの社会委員からの呼びかけである。東日本大震災を忘れないミニストリーが、昨年から活動をはじめ、募金活動や支援物資を送るなどしているが、教会の掲示板や壁には、連盟からの震災支援ニュースが、今なお所狭しと貼られている。
 私たちにできることは、限られている。人々に寄り添うことを考えるとき、その対象者もいろいろだ。こうした自然災害に遭った人、事故や事件で家族を失った人、病気や障害を負っている人などもいる。私たちキリスト者たちのこうした人々の必要に応える奉仕は、どこまで行うことができるだろうか。
 イエス・キリストを直接に伝えるのも大きな使命だが、困っている人々に寄り添うこともまた、私たちにイエス様から託された務めであろう。これからもできることをし続けていく。そして、キリスト者でなければできない伝道の業もまた粛々と行っていく。


平良 師

2014年3月9日 試練の時は、次が用意されている

2014年03月15日 17時48分20秒 | Weblog
試練の時は、次が用意されている

 いくつもの負の要因が重なって、誰が見てもよい状態とは思えない時がある。教会のあれこれの問題もそうだが、個々人が抱えている問題もあって、何となく全体的に元気がないと見えることもある。どの教会にもそれは起こりうる。
 このようなとき思うことは、この試練はどこから来ているかである。これがもし、神様からのものであるなら、これは私たちが成長するプロセスにおいて必要だということだから、状況を真摯に受け止め、忍耐して課題解決のために取り組もう。私たちの教会は、これからどのように歩んでいけばよいのだろうか。今は分かれ目である。
 私には、次の姿は希望にあふれているのだが、すべての人にとって、そうであるかはわからない。不安でたまらない、という方もいよう。とりわけ、2015年度からもし新しい教会組織構造になると考えるとその不安たるや、非常に大きい。今までの教会の組織構造に何ら不都合を感じて来なかった方にとって、この組織変革はさほどに必要なことではない。
 ただ、私たちは日本全体のことを考えてみようではないか。私たちの教会のことだけでなく、どうしたら、この日本全体に福音が広がっていくのか、と考えてみようではないか。そうすると、もっと大きな変革が必要であることがわかる。これまでと同じことの繰り返しで悪いことはないが、1タラントンを十分に活用しよう。預かったものは、倍以上にして返す。このことを主人はたいへん喜んでくれた。

平良 師

2014年3月2日 試練の時は、次が用意されている

2014年03月10日 21時50分30秒 | Weblog
試練の時は、次が用意されている

 いくつもの負の要因が重なって、誰が見てもよい状態とは思えない時がある。教会のあれこれの問題もそうだが、個々人が抱えている問題もあって、何となく全体的に元気がないと見えることもある。どの教会にもそれは起こりうる。
 このようなとき思うことは、この試練はどこから来ているかである。これがもし、神様からのものであるなら、これは私たちが成長するプロセスにおいて必要だということだから、状況を真摯に受け止め、忍耐して課題解決のために取り組もう。私たちの教会は、これからどのように歩んでいけばよいのだろうか。今は分かれ目である。私には、次の姿は希望にあふれているのだが、すべての人にとって、そうであるかはわからない。不安でたまらない、という方もいよう。
 とりわけ、2015年度からもし新しい教会組織構造になると考えるとその不安たるや、非常に大きい。今までの教会の組織構造に何ら不都合を感じて来なかった方にとって、この組織変革はさほどに必要なことではない。ただ、私たちは日本全体のことを考えてみようではないか。私たちの教会のことだけでなく、どうしたら、この日本全体に福音が広がっていくのか、と考えてみようではないか。
 そうすると、もっと大きな変革が必要であることがわかる。これまでと同じことの繰り返しで悪いことはないが、1タラントンを十分に活用しよう。預かったものは、倍以上にして返す。このことを主人はたいへん喜んでくれた。


平良師

2014年2月23日 教会の文化的教養の高い交わりについて

2014年03月01日 23時42分09秒 | Weblog
教会の文化的教養の高い交わりについて

 現代生活の中で神様が与えてくださったキリスト教会は、大きな希望であり喜びであると思います。また他の家族との交わりでもあり、慰めでもあります。教会の中で子供たちは、ことばも理解していない保育園の時代から、小、中、高校といろいろなことを学ぶ成長の中で、色々な家族の方たちとの交わりの中から、良い人格形成がはぐくまれ、おやつや食事をしている間に、礼儀作法や、日本独特の文化的交流が深く養われてくる。
 またことばについても 日本語は微妙な表現が多くあるので、すぐれた言語と考えられる。子供も大人も日曜ごとに神様のみ言葉を聞くので、教会は深い社会的交流の重要な要素を含んでいると考えられる。最近政治家の中に教育の内容や教育制度を変えようとする動きが強くなってきているが、そもそも教育とは何かを、よくわきまえた人物が事に当たるべきだと思うのに、教育学のレベルが浅い人物が教育制度の要職につくような錯誤が、平気で行われていることに危惧を覚えるのは私だけなのであろうか、警鐘をならしたい。


松村師