すべて自分に跳ね返ってくる
「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」、とパウロはガラテヤ書1・8において語っているが、何と狭量で排他的なことを言う人だろうという印象をもつ人も多いことだろう。
しかしこれは真空状態で語られた言葉ではなく、パウロたちに向けて、「あなたたちの<十字架のキリスト>を伝える宣教のわざは呪われている」(ガラテヤ3・13参照)という、反対者たちがなした罵倒が背景にある言葉なのである。つまり、イエスさまの、「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7・2)という言葉が現実となっているのだという、パウロの認識を示していると言ってよいだろう。
安部首相がNHKの経営委員に選んだ百田尚樹氏が、都知事選での田母神・元自衛隊航空幕僚長の応援演説で、「彼以外の候補者はみな人間のくずだ」と言い放ったことは記憶に新しいが、実はここでも同様の逆転が起こっている。
つまり、他の人の尊厳を無視してその人を「人間のくず」だと言うような人こそ、まさに「人間のくず」以外の何物でもない、ということが顕わになっているのだ。そういうことを平気で言えるような人を公共放送の重要な役職に任命する首相もどうかしていると思うが、しかし自らの私的諮問機関である安保法制懇談会の委員には「空疎な議論をしている人は排除している」という最近の安部首相の言葉を聞くと、ああ彼もやはり自分とは異なった考えを「空疎」と言い放つほどに「空疎」な人なんだな、と思わざるを得ないでいる。
自分がどんな考え方をして他の人を批判しているのか、その批判はすべて、神の前においては、そのまま自分に跳ね返ってくるのだ、ということを深く銘記しておきたいと思わされることの多い最近の日々である。
青野師