平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2008年5月25日 礼拝の場こそ

2008年07月26日 22時27分58秒 | Weblog
    礼拝の場こそ

 4月から九州バプテスト神学校で伝道学を教えている・・、というよりも、これまで考えてきたこと、してきたことをまとめる形で、お話させていただいている。
  5回が終わって、あと8回も残っている。自分なりに資料を集めたり、本も読んだりしているが、経験してきたことを語ることが一番いいようだ。というのは、先週の授業では、終わったあとに、出席されていた方から、「今日の授業は、とても感動しました」との感想をいただいたからだ。
 それは、平常伝道、特別伝道について語ったあと、5月11日の家族の日の礼拝とそのあとの昼食会のようすを語ったのだが、その内容に感動されたのである。要するに、私の授業というよりも、平尾教会の礼拝とその後の昼食会に感動をおぼえられたということである。
 子どもたちの証しや演奏、讃美、また、家族の証しや讃美などもさることながら、牧師、教育、伝道、音楽、礼拝、友愛の6者で話し合って、それぞれの部門で準備したというようなことも勉強になったと語られていた。
 平尾教会は、そういった意味では、全年齢層の一つの礼拝を守っているので、皆で礼拝を作り上げようとする意識が他よりは強いかもしれない。また、各担当の方々が、しっかりとされていて、準備をしてくださる、それのできる非常に恵まれた教会でもある。
 伝道のなされる所としては、礼拝が最も大きく重要である。その場がいつも聖霊に満たされていて、感動に溢れていることを祈りたい。


平良師

2008年5月18日 祈りにおぼえよう・・年に3度以上は祈祷会へ

2008年07月19日 15時39分04秒 | Weblog
 祈りにおぼえよう・・年に3度以上は祈祷会へ

 4月から、40名の新来者を神様は平尾教会へ送られた。そのうちの幾人かは、続けて礼拝に出席されていてうれしい。先週の家族の日の礼拝にも、三人の新来者があった。4月から、9名の方々が、就職、転勤、他教会出席(神学生とそのご家族)で来られなくなって、寂しくなったのだが、その分、また神様は新たなる出会いを用意された。
 教会の宣教活動は今年度もダイナミックで喜びに満たされている。その教会の活動は祈りに支えられている。一方で、個々人のいろいろな状況に対しても、力になれる教会でありたい。しかし、そこにも祈りが、そして、互いの信頼関係が必要だ。少なくとも牧師と信徒の関係においては、私も努力を怠らないようにとは思っている。できれば、困っていることがあれば、少々のことでも、皆さん_から発信していただけるとありがたい。
 牧師は、見ていないようでよく見ている、気づかないようで気づいている、鈍いようで鋭い・・とは誰も言ってくれないが、結構わかっているつもりでいる・・が伝えて欲しい。しかし、悲しいかな、祈る以外は何もできない。祈ることもしないとなると、何もしないのと同じである。
 だから、どんなことでも、信徒の皆さんには、「これこれのために祈って欲しい」、と伝えていただきたい。そして、牧師のことも祈って欲しい。教会には祈祷会という場がある。教会員が、年に3度以上は祈祷会に出席し、祈りを合わせるならば、どんなことが起こるだろうか。


平良師

2008年5月11日 ペットと人間社会との関係

2008年07月12日 22時40分43秒 | Weblog
   ペットと人間社会との関係

 近頃イヌと散歩している人を多く見かけるようになった。実は私の孫が今年一月にかねて念願していたイヌを家で飼うことになったので、街を歩く時に今までとは違って格別な思いでイヌを眺めるようになったせいかもしれない。
 日本の2006年の統計では、約千二百万頭のイヌと約960万頭の猫が飼われているそうだ。今までそう関心をもっていなかったイヌであるが、この頃では「ブル」と呼ぶわが家のイヌの姿を見ると、帰宅したときに寄ってくる顔と動作がかわいく、毎日一回はちょっと撫でないと気が済まない状態となった。
 家族と住んでいても時に寂しい思いをするのは、人間生活の常のようで、旧約聖書(箴言21章9、19節)には「いさかい好きな妻と一緒にいるよりは、屋根裏の片隅に座っている方がよい」と書いてある。
 動物と暮らすことの効用にはいくつもの利点が指摘されているが、(1)心身の疲れを癒す働きがある。(2)教育的効果。特に小学校・中学校時代の人格形成に役立つ。(3)医療的効果。悲しみを慰め、生きる希望を培う。ドイツ、中国では、うつ状態などの年間の医療機関への通院回数が減少するといわれ、また心臓の冠状動脈疾患(心筋梗塞など)の生存率が延びるというデータもある。
 これから日本も国家の方針として、高齢者の医療費については考慮すべき時期に来ていると思われるが、オースラトリアではペットと暮らす男性の生化学的検査値は非常に良好だという結果が出ており、またイギリスではペットを飼っている子どもは、そうでない子どもに比べて不登校率が低いといわれている。
 このように考えてくると、動物と暮らすことは人間にとって大きな意味を含んでいるとそ想像される。神の創造の意義をあらためて考えたいものである。


松村師

2008年5月4日 私たちの目指す教会とは

2008年07月08日 22時56分35秒 | Weblog
    私たちの目指す教会とは

 私たちの目指す教会とは、どのようなものだろうか。全年齢層の一つの礼拝を守っているということにすべては集約されていると言って過言ではない。つまり、どの年齢の方々でも来られる教会である。
 乳児からご高齢の方々まで。それは、当然、病人や障害を持っている方々までもが含まれることを意味している。現に、私たちの教会は、見事なまでのバリアフリーである。
 教会の玄関に階段ではなく、スロープをつけているところは多いが、本当に、そのスロープで、車いすの方や足の悪い方が自力でスムーズに入って来られるかというと、そうでもない。それに比べ、平尾教会は、段差がまったくないから、それが可能である。
 また、障害者用のおトイレも、かなりゆったりめにスペースを取っており、緊急ブザーや照明のスイッチも2段になっているなど、細かな心配りをしていると思う。それから、エレベーターもあって、2階への行き来もできる。
 また、難聴の方々には、昨年から補聴器を準備できるようになった。それでも、まだまだであろう。教会への送迎ができるようになったらさらによいし、教会で具合が悪くなったり、倒れられたりした場合の対応などもマニュアルなどができていたらよい。
 しかし、同時に、私たち一人ひとりが、心から、幼い子やご高齢の方々や、病人や障害を負っている方々への理解や配慮がどれほどできるか、ということが求められるのであり、その訓練も必要なのである。


平良師

2008年4月27日 カレンダーに従い通読完了

2008年07月08日 22時56分14秒 | Weblog
   カレンダーに従い通読完了

  平尾教会の伝道委員会が、毎月出している祈りのカレンダーに聖書通読表が載っている。それに基づき、一年で聖書を通読された方がおられる。その方からお話をお聞きしたのでわかったのだが、ひょっとしたらもっとたくさんおられるかもしれない。
 このようなニュースは、随分と励まされる。祈祷会でも、このカレンダーに基づき、この日におぼえることになっている方の名を挙げて祈るのだが、ときどき忘れることがある。とにかく、毎日、忘れずに読み続ける、おぼえて祈り続けることがいかに難しく、大切なことであるか、試みようとした方々はわかるだろう。
 そして、それを成し遂げた方には、何かご褒美があるとよい。否、既に、心のうちに、神様からの思いがじわっと伝えられているのではないだろうか。それこそが、本当にすばらしいご褒美と思う。ところで、通読しないとわからないことは案外と多い。救いがあのような形で成し遂げられなければならなかったわけも、また、そのありがたさも旧約聖書を通読したならば、一層理解が深まることだろう。
 イエス様も、旧約聖書は、ご自分を指し示すものだと言われた。そのようなことも通読して初めて納得できるのである。伝道委員会では、今年もまた祈りのカレンダーを作成している。
 4月27日の聖書箇所は、出エジプト記10~11章、マタイによる福音書18章15~35節、祈りにおぼえる兄弟姉妹は、NT兄。そして、課題は、教会学校の働きをおぼえて、とある。


平良師

2008年4月20日 今年の桜は・・・

2008年07月08日 22時55分52秒 | Weblog
    今年の桜は・・・

 笑おうにも笑えない話シリーズの第3弾。
 先日、夜、食事を終えて、私は教会へ忘れていた仕事をしに戻り、妻は、近くのスーパーに買い物にでかけた。私は20分くらいでその仕事を終えて、再び家路についたそのときのことである。
 家まであと50メートルくらいだっただろうか。前方に、買い物袋を提げた妻の姿があった。私は、妻に追いつこうとまでは思わなかったが、ちょっと早足になったようだ。そうしたら、妻もちょっと早足になって、マンションに入っていった。
 階段を上る妻の足音もいつもより早いと思ったが、別に気にすることもなく、家に着いてドアを開けようとしたら、鍵がかかっている。寝る前にはさすがに施錠するが、それ以外は、鍵をかけるような習慣のない家だ。それが、鍵がかかっている。仕方なく、ブザーを鳴らすと、鍵があいてドアが開いた。「お母さんが怖がった変な人はこの人やったばい」と次男が爆笑した。
 妻は、変な男が、自分をつけてきたと勘違いしたらしい。結婚して28年。笑いたいが笑えない。何かしら、妻が遠くに行ったようで、寂しい気分だった。
 後ろから来ている人が、誰かぐらいは気配でわかるだろう。それは甘い。イエス様も自分の衣に触った女性が、誰だか知らなかった。しかし、自分の力が出ていったことには気づかれた。妻に伝わった私の力は、変な男の気配だった。今年の桜はあんなに長持ちしていたのに、今朝の教会へ続く道は、散った花びらで真っ白だ。


平良師

2008年4月13日 イエス様の愛情は攻撃的

2008年07月08日 22時55分34秒 | Weblog
   イエス様の愛情は攻撃的

 右の頬を打たれたら、左の頬を出せと言われたとイエス様の愛は、実に攻撃的だと思う。イエス様は、ファリサイ派や律法学者たちなどに厳しいお方だった。彼らの偽善者ぶりをこれでもかこれでもかと暴きたてた。
 彼らもまた、何とかして、イエス様を陥れようと必死になった。多くの民衆がイエス様に従っていったこともあり、あらゆる場面で、誇りを傷つけられたファリサイ派や律法学者たちが殺意を抱いたのも、ある意味では致し方なかったのではないかと、聖書を読む者は思う。
 イエス様は、神様の真意が曲げられ、弱く貧しい人々に御国が閉ざされているのを、許せなかった。このときイエス様は怒れる人であった。しかし、イエス様は、ファリサイ派や律法学者たちをも深いところでは愛されていたのだろう。そのような愛もまた、実に心身を消耗する攻撃的なものであったに違いない。この攻撃的な愛の姿を病の癒しや奇跡をなさるときのイエス様にさらに見ることがある。
 汚れた霊に取り付かれている男が、イエス様に向かって「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」と言ったとき、「黙れ、この人から出ていけ」と言われて、この男が正気に戻ったことが記されている。
 「かまわないでくれ」と言われても、イエス様の攻撃的な愛はそれを許さなかった。「汝の敵を愛せよ」、とも教えられたイエス様は、十字架についてその攻撃的な愛の姿を全うされた。


平良師

2008年4月6日 新しい道の歩み、希望のとき

2008年07月08日 22時55分08秒 | Weblog
  新しい道の歩み、希望のとき

 四月になって新しい道を歩み始めた人々がいる。Mさんご夫妻は、寮の管理人となられた。男子学生を相手に、きっと温もりの濃い親代わりを演じられることだろう。
 Sさんは、女子中高の聖書科の教員として松山へ行かれた。ああ、夏目漱石の「坊ちゃん」。しばらくは、学生にからかわれるかもしれないが、たまには道後温泉でゆっくりして、楽しくやって欲しい。
 Kさんも、学校事務のお仕事は初めてだし、慣れるまではくたびれるだろう。こちらでの生活も初めてだし。しかし、転勤がない分、安心してどっしりと構えて事にあたられると喜ばれている。
 大分の大学に行かれたIさんは、自分の進みたい道の第一歩を踏み出せてよかった。一人の生活もそれなりに楽しみにされ、あちらでの教会の方々との出会いもきっとうれしいものになるに違いない。
 入園、入学した子どもたちの緊張した姿も微笑ましい。今日は、桜も満開で、春のうららかな陽気である。あちこちで花見をする人々も多いことだろう。教会のアーモンドの花は、桜よりも早く開花する。桜に似ているが、花びらはより大きく、中心の赤色も濃い。教会はすべての喜びの先取りだ。
 神様は、私たちを日本という国に誕生させ、この国に生き、この国で宣教するようにと、道を整えられたのも感謝。四月というこの時期は、特に、今日のような美しい日には、あちこちに希望の陽光が差し込んでいるように見え、「今は幸せのとき」と、大いに喜びたい気分になる。


平良師

2008年3月30日 教会における自由と責任

2008年07月08日 22時54分05秒 | Weblog
    教会における自由と責任

 教会において、自由を考えるときには、イエス・キリストによっていただいている自由である。だから、平尾教会員になると、これこれのことをしなければならない、というものはない。ただ、自由であるけれども、それが群れである以上、ルールが必要になるのは、どの社会でも同じこと。

 ただし、教会では、教会出席も献金も奉仕も自由である。教会の約束なるものを作り、礼拝、献金、奉仕、家庭礼拝など、これだけは努力しましょう、と謳っている教会もある。しかし、最終的には、個々人は、神様との約束に生きているのである。

 多くの教会は、年一度でも礼拝に出席するか、献金を一度でもすれば、現在会員である。現在会員は、総会において、選挙権や議決権を有するということだけのことだが、毎週礼拝に出席し、毎週献金をした者と、一回しか来られなかった者、或いは、一度しか献金できなかった者との扱いが同じである。

 これは、一般社会では、考えられない。これは何故かというと、形で、信仰をはかってはならないということなのだろう。しかし、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」と聖書にもある。思うに、教会でのことは、力ある者、持てる者が行うのではなく、心ある者が行っているのである。

 つまり、キリスト者の礼拝も奉仕もすべては、神様を畏れ、神様に感謝し、イエス・キリストの福音宣教のために行っているという思いから発しているのである。


平良師