平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2018年8月26日 今、教会に必要とされてることとは

2018年08月28日 18時41分06秒 | Weblog
今、教会に必要とされてることとは

 昨今、大学で若者たちを見ていると、激しい競争社会のなかで、彼らの多くが傷つき自信をなくしていると感じます。神学者ヘンリ・ナウエンは、現代社会は「自己不信、低い自己像、自己否定、落胆という闇に、しつこく私たちを引きずり込もうとする」社会であり、その中で人々は傷を負い、引き裂かれていると述べています。
 近年日本でうつ病等の精神疾患の患者数が増加している背景には、様々な心理社会的要因が考えられますが、ある精神科医は、そのうちのひとつは、家族・職場・地域など人を支えるコミュニティやネットワークが消失した結果、人に頼れず精神科クリニックに駆け込む人が増えたことにあると言います。
 また、1950年代後半から始まった「国民性の研究全国調査」での「あなたにとって大切なものは何ですか?」という問いに、1970年代からは「家族」と答える人が増え続けていますが、現実には単身世帯・非婚の人が増加しています。2050年には女性の17.4% 男性の29.5%が生涯未婚になるとも言われます。マザー・テレサは、「孤独と人に必要とされていないという感覚は、究極の貧困である。」という有名な言葉を残しました。
 今日の教会に期待されていることのひとつは、苦しみや悩みを否認するのではなく、意味あるものとして忍耐強く受けとめてくれる場所、ひとりひとりが安心して悩み、苦しむことができる場所を提供することではないでしょうか。


才藤千津子 協力牧師

2018年8月19日 ヒーロー登場

2018年08月28日 18時38分51秒 | Weblog
ヒーロー登場

 山口で、2歳になる男の子が行方不明になったことをニュースで知った尾畠さんは、その子を捜すためにわざわざ大分からやってきて、30分ほどでその子を見つけ出した。この尾畠さんは、これまでにも多くの被災地を訪れ、ボランティアに励んで来られた方だ。
 軽ワゴン車に自分の生活物資は積んで、現地の方々には何一つ迷惑をかけず、手助けだけをするというボランティア精神にあふれた方だ。今回のことでは、時のヒーローになられた。マスコミのインタビューにも逐一応答されていて、純朴さとユーモアが好印象を与えている。尾畠さんは、65歳のときに、それまで勤めていた魚屋さんの仕事を辞めて、これからの人生は、感謝を何らかの形で表したいとボランティア活動を始めたと言われていた。
 彼は、ある司会者が、尾畠さんはお体はどこか悪いところとかはないのですか、と聞かれたときに、3つ悪い所があると言われて、それは、顔が悪いこと、色が黒いこと、そして足が短いところと答えられた。ところで、ボランティアの活動費はどうなっているだろうか、と思うのだが、それは年金だそうだ。
 世の中には、すごい人がいるものだ。私は、自分がこの職務を神様から解かれたときには、自分の楽しみごとをあれこれしたいと思うことだろう。他者のために何か手助けをしたいという思いは、実に尊い。しかし、人は、心からそれができるかと問われると、簡単ではない。尾畠さんもまた、ある意味で、献身されているのだ。


平良牧師

2018年8月12日 キリストの教会には誰もが招かれている

2018年08月28日 18時35分29秒 | Weblog
キリストの教会には誰もが招かれている

 人を殴るなどというのは、したことがないというと嘘になる。かっとなって、手が出たことはある。中学生のときに、遊びで友人とボクシングをしたことがある。
 グローブをはめて見よう見まねでやってみたが、これは勇気のいるスポーツだと思った。まず、人を殴るということを冷静に行うわけだが、そのようなことなど、普通の精神状態でできるのだろうか。それとも、試合のときには、相手への憎しみを自分なりにかりたててやっているのだろうか。ボクシングは、かなりのハングリー精神が必要だと言われるが、おそらくそうなのだろう。
 このたびの、アマチュアボクシング協会の会長の辞任騒ぎがあったが、すごみのある親分といった印象を受けた。彼が、どのような不正を働いたかの真実はこれからだろうが、本人は、自分は何も悪いことはしていないと言う。しかし、実際、これまでその筋の人々(反社会的人々や団体)との付き合いもあったというので、それだけでも、会長職アウトということをテレビの出演者たちは言っていた。
 それでは、我々はどうか。こうした方々が教会に来た場合、これらの方々は出入りお断りと言えるだろうか。安らぎと癒しを求めて来る方々が多いのが教会だから、そうした方々を守る意味でもお断りせねばならないと考える人もいるだろう。しかし、キリストの教会で、それは言えない。イエス様の当時の振る舞いを考えると、とても言えない。教会には誰もが招かれている。


平良 師

2018年8月5日 もう、ここらでよかろう

2018年08月28日 18時31分20秒 | Weblog
もう、ここらでよかろう

 西郷隆盛が、鹿児島の城山で最後を迎えるときに言った言葉である。「晋どん、もう、ここらでよかろう」。そして、別府晋介に介錯させたという。NHKの大河ドラマの最後で、ナレーターが、毎回「今日は、ここらでよかろうか」といったようなセリフを述べる。
 おそらく、ドラマでは、このセリフを最後は、西郷自身が言うのであろう。西郷隆盛の人生の終わり方である。「もう、ここらでいいんじゃないか」、そうやって人生を終わることができれば、それはそれでいいと思う。やれるだけのことはやったのだから、もう、いいでしょう、もう、ここらが潮時だ、という意味合いもある。潔さと同時にちょっとしたユーモアさえ感じる。
 世の政治家たちは、明治維新の立役者であるこの偉大な政治家に学べ。そう、現代の政治家たちの幾人かには、一日も早く、政界から立ち去るべしと勧めたい。そして、そのとき、もし、この言葉を述べるなら、それは余裕すら感じられ恰好よいではないか。「もう、ここらでよかろう」。権威、権力は、しがみつけばしがみつくほど悪臭を放つから、そうなる前に、西郷に続こう。
 しかし、これは、何も政治家だけではなく、我々もまた然り。私も頭の片隅に、この言葉が、ちらっとよぎる年齢になった。ただ、キリスト者は、召命感や献身といった、あちら側の御心とこちら側の信仰によって、これからの道が示されるのであるから、事を決するときは、祈って決めるということになるけれど。


平良 牧師

2018年7月29日 正義の熱が上がらない

2018年08月05日 11時34分51秒 | Weblog
正義の熱が上がらない

 この件については、いったい誰に責任があったのか。モリカケ問題は、部下たちが、トップの意向を忖度して、勝手にやったことであったと、いったい誰が信じるだろうか。少なくとも、そのような危ないことを事務方がトップの意向もないところで、勝手にするはずがないというのが、正直な思いである。
 しかし、誰もそのことを究明できなかった。いろいろな憶測をしり目に、どうも、あの方は三選に臨むらしい。間違って困るのは、日本人は、皆、日本の国を愛しているということ。あなただけではない。終戦の日が近づき、前の戦争で、アジアの人々に行った過ちにきっちりと向き合う時が、今年もやってくる。日本の国を愛し、再び同じような過ちに至らないために何度でも猛省が必要であろう。自分の過ちを認めようとしない者は、同じ罪を犯すものだ。
 いくら、日本の国を愛していると主張しても、かつて行った過ちをきっちり認めることをしなければ、それでは、日本を愛していることにならない。この国は、今やトップの責任放棄の姿勢によって、皆右へならいとばかりに、権力の居直りを方々に見るようになった。
 そんなことで、日本社会は、「正義」という言葉に熱が上がらなくなっている。ついでに言えば、地元のプロ野球の球団も不調で、「熱男」の声もあまり聞こえてこない。世の中は、異常な暑さ、熱にあたる「熱中症」は増え続けているが、社会正義を求める熱はとんとお寒い。


平良 師

2018年7月22日 我々の出番!

2018年08月05日 11時29分25秒 | Weblog
我々の出番!

 多様性を認め合うことは、今の時代、どれほど大切なことだろうか。子どもの社会だけではなく、大人の社会でも、いじめというものはある。いじめというのは、陰鬱で、卑怯な体質を帯びていることは間違いない。これは、自分の価値観や好みを優先して、多様性を認めないところから生まれる。自分がいいと思うものを他人もいいと言ってくれるとは限らない。
 人それぞれに好みがある。色、臭い、食べ物、肌触り、音楽、その人が、いいと思うものを他人がそうだと言ってくれないからといって、不快に思ったり、怒る必要もない。また、軽蔑する必要もない。ただ、自分の言動によって、他者が迷惑を被ったり、傷つくことは避けるべきだろう。
 今の時代をどう見るかは、これからのキリスト教の宣教方針を決める上で、たいへん重要である。私は、これからの社会は、日本に限らず、多様性を認め合うということは必須のことになるだろうと考えている。人間自体、これが標準とか、普通というものは最早ない。
 もちろん個性は、それぞれだが、人種、性、障害のあるなしなど、どれ一つとっても、今や、もう多様であり、それぞれが相互に他者を認め合い、リスペクト(敬意をはらう)していくことが求められているのではないか。日本社会は今やキリスト教が伝えようとしている福音をこれまで以上に受け入れていく体制が整ってきていると楽観視している。いよいよもって、私たちの出番ではないかとも思っている。


青野 師