平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2004年10月24日 青野先生の説教・講演集『十字架につけられし給ひしままなるキリスト』を読んで

2007年01月12日 23時35分58秒 | Weblog
 青野先生の説教・講演集『十字架につけられし給ひしままなるキリスト』を読んで

 キリスト教の中心は、イエス・キリストの十字架の理解にある。私が最初に出会ったときから、今日に至るまでが25年とすれば、おそらくそれ以前からということになるので、もう30年以上も、青野先生はそのことだけを考え、そのことだけを語ってこられたのだと思う。
 私が教員をしていた頃、青野先生が教師たちの研修会で話しをされたことがあったが、そのときの内容は、キリストの逆説的な十字架理解、父母の会でもそうだった。青野先生は、こう言われた。
 「私はこれしか話すことがでないので・・」。パウロが、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(1コリント2:2)と言っている姿と重なる。
 209頁に「キリストは今もなお、『十字架につけられし給ひしままなる』姿をもって、私たちと歩んでくださっているのです。しかも復活されたキリストとして、共に歩んでくださっているのです」。
 これが、青野先生の十字架と復活の理解なのだと思う。「ですからこそ、そのような復活のキリストは『私の恵みはあなたに対して十分である。力は弱いところにこそ完全にあらわれるのだから』ということがおできになる方なのです」。
 キリストを知った後も私たちには苦難がある。祈っても何もからわらないことだってある。喜びが一転して悲しみとなる。神は力あるお方ではないのか。青野先生の十字架の理解と復活の理解は、そのような私たちに神様の真実の力を指し示しておられると思う。


平良 師