平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2011年4月24日 抜かることがあっても・・

2011年04月24日 22時58分09秒 | Weblog
    抜かることがあっても・・

 近くのスーパーや店舗の駐車場が、100円パーキングとなった。ただし、お店を利用して30分以内は無料である。このようなことになったのは、これまで、駅に近い、停留所に近いというので、店を使わず、無断駐車してそのまま夕方まで放置という者がいたのだろう。
 それで、店側としても、それならそれできちんと料金を払ってもらえればいいので、100円パークにしたということか。あるいは、利益を少しでも生み出そうとする経営努力もあろう。確かに、ぬかりなく、事を成すことは大事である。
 そもそも「抜かる」とは、「大切な事に気づかないで、失敗すること。油断してやりそこなう」と岩波辞典には出てくる。イエス様が復活されたとき、祭司長たちは、兵士たちに多額の金を与えて「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言うように説得したとマタイによる福音書にはある。
 しかし、それでも、弟子たちの方が、こうしてそのことを聖書に記しているのであるから、どちらがぬかりなくかは、わからない。今回の原発事故もぬかりなくやっていたつもりだろうが、そうではなかった。原発などは決して抜かりなどあってはならない。
 ただし、教会というところは、大いに抜かることがあっていいのではないか。あちこちとすきだらけだからこそ、人も安心してやって来られることはないか。聖書に人が親しむのは、人の抜かりなきことばかりが書かれているからではないだろう。


平良師

2011年4月17日 取って食べるなと命じた木から食べたのか

2011年04月17日 20時56分25秒 | Weblog
 取って食べるなと命じた木から食べたのか

 神様は、人間に知らないでよいことを備えられている。ヘビは、エバを唆して「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。それを聞いて、エバは、食べてはならないと言われていた木の実を食べた。
 原子力への挑戦は、食べてはならない禁断の木の実だったのか。福島原発事故により、今、多くの人々が苦しんでいる。汚染されて、地域に住めなくなった人々、売り物にならなくなった農作物、魚介類、最近では、工業製品までもが、放射能値を測定して、安全性を確かめてからでないと輸出できない状態となった。
 外国人たちは日本を脱出し、海外からの観光客も激減した。国内でも、自粛ムードは続き、否、それよりも何も、何かイベントをしようという元気がでて来ないのだと思う。連日連夜の被災地の現状、原発事故の報道は、私たちを暗澹たる思いにするが、目を逸らすわけにもいかない。大地震、大津波も想定外だったであろうが、こうした、広範囲にわたる被害とそれが及ぼす影響も、想定外だったに違いない。
 もう、日本一国の話では収まらなくなってしまった。原発事故のレベルも7にはねあがり、これからもっとひどい汚染が始まることを覚悟してくれ、と言わんばかりだ。今、国民一人ひとりが、個人ではどうしようもないことなのに昼も夜も一生懸命考え、頭を抱えている。聖書への傾聴と祈りと、ああ、神様どうしたらいいのですか・・。


平良師

2011年4月10日 子どもたちが未来を

2011年04月17日 20時52分20秒 | Weblog
    子どもたちが未来を

 あまりにも大きな災害と不安のため、普通であればニュースとして取り上げられるものが、そうならない。多くの事件が起こっているのだろうが、この大震災、大事故のために、私たちの目や耳に届かない。
 毎日、被災者の生活のようす、福島原発の事故処理のこと、この二つは、必ず見ないで就寝することもできない。また、経済も沈滞気味である。社会全体が沈うつな空気の中にあるのに、教会だけが、元気であるはずもない。皆が耐えている、そのような空気である。大地震、大津波から丁度1ケ月になる。日本人は、今度のことで多くを学びつつある。科学の粋を集めても、手に負えないものがあるということを教えられている。
 自然の力もそうだし、原子力もそうだ。しかし、どちらがやっかいかというと後者。北茨城沖で獲れたコウナゴから基準値を上回る放射性セシウムが検出されたという。海は世界につながっている。私の釣り場にもつながっている。魚には回遊するものもある。海外の和食の店に人が入らなくなっているという。ふあ~と溜息が出る。しかし、被災されている方々のことを思えば、私の憂鬱などとるに足りない。
 テレビでは、避難所で生活をしている子供たち、地域を離れて暮らさざるをえなくなった子どもたちが、けなげにも明日につながる言葉を語ってくれる。不自由さに耐えながら、思いやりに満ちた言葉を語る。今この国では、子どもたちが、神の国を示し、未来を教えてくれる。し、キリストに導き、訓練し、福音を伝える者として派遣する。二つで一つの教会になっても、その基本的な営みに変わりはない。


平良師

2011年4月3日 春の訪れもひっそり

2011年04月03日 15時12分08秒 | Weblog
    春の訪れもひっそり

 教会の前庭に今年も見事にアーモンドの花が咲いた。通りがかりのご婦人が、この桜の枝を少しくださいませんか、病気の方のお見舞いに是非持っていってあげたい、とのことだった。「いいですよ、でも、これはアーモンドの花ですよ」、と言ったら、そんな珍しいものなら、なおさら欲しい、というので差し上げた。
 ところで、桜を待っている人々は、今年も多いだろうか。この春は、可愛そうである。例年ならもうすぐ開花だ、五分咲きだ、などと待ち遠しく思われる桜の花も、さほどに関心の的になっていないように思う。天気予報も、桜前線よりは、今日の原発近くの風向きの方が気になる。
 連日の大震災の被災者のようす、原発の成り行きの方が、関心があるし、そして同時に、こうした報道番組ばかりを見ているせいか、気持ちも花見どころではないといった感じになってしまう。聞けば、方々の観光地には閑古鳥が鳴いているという。
 6月に、日本バプテスト連盟、沖縄連盟、日本バプテスト同盟の3団体の教役者大会が沖縄で開かれる予定だったが、同盟の教会で被災された所が多く、取り止めとなった。日本全体が力を失いかけている。このような事態に至って人々の励ましや優しさ、善意が、被災された方々の支えとなり助けとなっている。それでも、人の言葉ではもう何の力にもならない、そういう人々もおられよう。私たちは、聖書の御言葉こそ、力であるが、まずは被災された方々に寄り添うことから始めよう。


平良師

2011年3月27日 これからの日本はどう変るべきか

2011年04月03日 14時59分07秒 | Weblog
   これからの日本はどう変るべきか

 3月11日、突如として起こった東日本大震災は、地球上で初めてといわれる程大きな地震と津波が発生し、嘗て人類が経験した最大級の災害となった。一連の東京電力の福島原発機のタービン建屋では、電源復旧作業中の3人の社員が被ばくし、今後の作業の安全性の有無が問われている。
 今後、復旧作業がスムーズに行われるか、その可能性、また将来の見通しなども不明瞭のままである。広汎にわたるこの度の災害はかなり長期に日本の政治的、経済的な活動の動静にも少なからず影響を及ぼすことは必須のことであろう。該当する地域だけでなく、全国の市町村も種々の影響を受けることになる。
 われわれは、今こそ神様のあわれみとよき導きを祈り、すべての隣り人と協力し、お互いの立場や必要事項を共有し、私事を少しは犠牲にしても社会、日本全体の復興に協力し、ある一定の窮乏生活を余儀無くしても、将来の日本の歩みを目指していかねばならない。
 今こそ、神の独り子、イエス・キリストが、私たち人類の救い主、助け主であることを信じ、お互いに手をとり合って、生活全般を変えていくことが要求されると考える。すなわち、食物・水・電力・燃料・木材・紙・衣類などなどすべてのことにおいて、節約に節約を重ねる生活態度をしていくべきと熱望する。


松村師

2011年3月20日 大地震と祈り

2011年04月03日 13時22分40秒 | Weblog
     大地震と祈り

 大きな地震と津波が東北を襲った。原発自体の安全性もさることながら、たとえ安全な場所に設置しようにも、この日本のどこにそのような場所があるだろう。地域も、諸々の状況があり、苦渋の選択の末、受け入れたのだ。電力会社にとっても、予想を遥かに超えた大地震であり、巨大津波であった。非常用の発電燃料タンクと発電機が津波に持ち去られるなど、想定外だった。
 今日(3月17日10時:30分)の報道でも、自衛隊が、空から散水しているが、距離をおいて行わなければならない作業であるから、当然、効率的には悪い。燃料棒の冷却はうまくいくのか。しばらくすると地上からも車で放水するという。皆、命がけの作業である。早く、沈静化の方向で事が動いていくことをお祈りするばかりだ。
 今回の東北太平洋沖地震での犠牲者は、1万人を超えると言われている。避難されている方々は、まだ35万人もいる。避難所だけでなく、自宅にいる方々も、食料、飲料水などの配給が滞りがちで困っているようすだ。本来であれば、被災者にこそ、すべての関心を傾けなければならない時なのに、現在の日本中の否世界中の関心事は、原発がこの後どうなるかである。
 この文章を週報で皆さんが見る頃には、事態ははっきりしているだろう。外国人には、日本人の地震以降の冷静な対応・態度が、随分と評価されているという。被災されている方々のことをおぼえ、ひたすらに祈り、求めに応じてできることをしたい。


平良師


ブログ管理者記載
 上記文章が書かれた以降、原発設計、製造現場の関係者の証言による原発の危険性や経済産業省の原発の議事録により津波の危険性が次々と明らかにされていて、東京電力、経済産業省、原子力安全・保安院側の欺瞞性があるようです。

http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/genpatsu.pdf
http://www.nisa.meti.go.jp/shingikai/107/3/032/gijiroku32.pdf

2011年3月13日 教会車の乗り心地と活用

2011年04月03日 13時13分39秒 | Weblog
  教会車の乗り心地と活用

 3月6日は、残念ながら雨のため、教会車のお披露目を行うことができなかった。しかし、この日4名の方々をお乗せして送らせていただいた。4名の方々のご感想は、実に快適だったとのこと。ほんとうに運転しやすい車だ。車体が高いので、運転しやすいのである。
 しかし、運転場所が、前の方になった分、後ろの方が、長く感じられるので、左折の場合は、特に気をつける必要がある。また、低い所にある障害物も要注意だ。運転座席が高くなっている分、気づきにくい。しかし、快適である。中ほどにある両扉は、自動ドアである。左側の座席が外にせりでてきて、ヨイショと中に入る手間が要らない。人を乗せたなら、また、中へそろりそろりと入っていく。
 普通車にはない手すりや吊り輪が、3ケ所についている。車に乗るときの踏み台を常時携帯している。一応福祉車両である。この車は、ご高齢の方々や体の不自由な方々のことを念頭において購入したものであるから、これらの方々は優先的に乗せてもらう権利を有しており、遠慮なさらず是非とも利用していただきたい。
 4月より運転当番を決めて、礼拝出席のための送迎を開始したいと考えている。運転のご奉仕は、21歳以上であれば、どなたもできるように保険に加入している。ただし、ご高齢の方々を乗せての送迎であるから、くれぐれも慎重を期していただきたい。教会の祈りは、ご高齢の方々と共に、主日礼拝を一回でも多く守りたいということである。


平良師

2011年3月6日 行事の意味

2011年04月03日 13時04分40秒 | Weblog
      行事の意味

 行事には、意味がある。3月1日、三女の卒業式に出席した。送辞や答辞もそうだったが、各クラスに戻っての生徒一人ひとりの挨拶を聞いていても、文化祭と運動会のことが、よい思い出として深く心に残っているようだった。
 クラスが一つになった、また、助け合って何ごとかをやり遂げた、力を精一杯出し切ったという体験が、その理由だった。学校生活においては、勉強だけでは豊かな教育を行うことはできない。部活動があったり、学校行事があったりする中で、豊かさは養われる。
 教会も同じようなことが言える。記念日や行事など、一切ない一年と特別集会や特別行事を適宜に盛り込んでいった場合とでは、教会の活性度は随分違ってくるはずである。召天者記念礼拝などの特別礼拝、特別伝道集会、ファミリーキャンプ、夏期キャンプ、教会バザー、餅つき会、教会レクレーション、クリスマス礼拝、イ-スター礼拝など、数多くの行事が、教会でも行われる。
 それぞれの行事によって、教会生活は活性されたり、メリハリが生まれたりする。今年になって、大名CCの話し合いもあり、餅つき会と教会バザーをなくした。そして、確かに、大名のことには集中できたが、なんとなく静かで寂しい冬であった。もちろん、教会生活を充実し、豊かに送るためには、礼拝を守り、祈りをなし、奉仕をするだけで十分である。しかし、礼拝だけでなく、行事など、教会での時間を楽しむことに工夫を凝らすことも大事である。


平良師