平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2008年3月23日 弔辞

2008年05月30日 13時28分32秒 | Weblog
       弔 辞

 昨年は甲斐兄が、そして先週は小野兄が天に移されてしまい、平尾教会の礎を築き上げてくださった二人の先達を失なってしまった。とても寂しい。そのお二人の告別式で私は弔辞を読ませていただいたのだが、二回とも亡くなったご本人に直接語りかけることをしたので、びっくりした方もおられることだろうと思う。

 なぜなら、キリスト教の葬儀における弔辞は、亡くなった人に直接語りかけるのではなくて、その方についての思い出として三人称で語るようにしなければならないというのが、アメリカ人宣教師などの影響下で成立してきた伝統的な理解だからである。

 亡くなった人の霊魂は私たちにはまだまったく知らされていない遠い「天国」に移されてしまったのであって、よく日本の映画などでも描かれるようにいつも私たちの近くにいて「守護霊」のようにして姿を現わしたりするわけではないから、というわけである。しかし私はこの伝統的な理解に対してずっと抵抗を感じてきたので、自分で弔辞を読むときには常にご本人に呼びかけることをしてきた。

 ある時には「神学部長として」そのようにしたので、多くの人から「なぜ」と問われてきた。聖書において死後の世界がどのようにとらえられているかという問題については、私は『どう読むか、聖書』(朝日選書)の137頁以下で、その理解は実に多様であり、確実だと言えることは、生きているにしても死んでいるにしても創造主なる神は常に私たちとともにいてくださるということぐらいだろう、と記した。

 つまり私の理解の根底には、「わたしがよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない」というヨハネ11章25~26におけるイエスの言葉があるのである。
 だから、亡くなった人は、たとい肉体は滅びても、神さまとともに、イエスさまとともに、「新しい命」を生き続けているのであって、私が呼びかける言葉を聞くこともできないような遠いところに逝ってしまったのではないのだ、と私は信じているのである。

 一人のアメリカ人宣教師は私のこのような捉え方に理解を示してくれて、「日本式の弔辞」の方がよいかもしれない、と言ってくださった。また、あのフーテンの寅さんのファンとしても有名な実践神学者・関田先生の、恩師・浅野先生への弔辞が、最初は三人称を主語にして伝統的な仕方で語られていたのに、途中からは「浅野先生!」と二人称で呼びかける形をとってしまっていることが記録として残されているのも、とても示唆的だと思う。
 そうなるのが最も自然なのだ、ということを示していると思われるからである。もちろん私は自分の理解を絶対化するつもりはまったくない。ただ、それを「異教的だ」として排する根拠も乏しいように思うのである。


青野師

2008年3月16日 基本とか型とかいったこと

2008年05月27日 00時24分39秒 | Weblog
   基本とか型とかいったこと

 何事も迷ったときには、基本に戻ることだ。私は、中高で、体育の時間に剣道をとった。剣道は、型があって、型がなっていないと面とか胴とか、籠手にあたっても一本とならない。そして、型ができて、初段が与えられる。将棋も定石というのがあり、これを一応理解した者が、初段ということらしい。キリスト者の基本とか型といったものを考えると、どういうことになるのだろう。

 まず、バプテスマ(洗礼)を受けることが初段であり、基本ができたということか。そして、いろいろなことで信仰生活に躓きをおぼえたときには、最初の恵みのバプテスマを想い起こし、そこに戻ってくるのである。また、基本ができていないと、後の積み上げが難しくなるということも言える。スポーツには、結果が出ればそれでOKというものもある。野球、マラソンなど、球が速ければよい、走るのが速ければよい、などと結果が良ければそれでいいというのもあろう。

 それでも、理想の投球ホーム、ランニングホームというのがあって、そのホームを押さえていると間違いが少ない。型というのは無駄がなく、最も小さい力で最高の結果を出すというように、理屈に合っているものなのだ。

 型がなっていないと体のどこかに歪が入ったりもしよう。何事にも基本・型というのがある。キリスト者の基本はバプテスマで、聖書を読み、祈り、主に仕えること。しかし、何はともあれイエス様のところへ戻ってくる、これ以上の基本はないだろう。


平良師

2008年3月9日 私たちの教会はフリーサイズ

2008年05月17日 16時03分01秒 | Weblog
  私たちの教会はフリーサイズ

 私たちの教会は、全年齢層の一つの礼拝を守っている。この礼拝は、赤ちゃんからご高齢の方々まで、すべての年齢の方々が一堂に会して行う礼拝である。そうすると、家族で礼拝に出席できるというすばらしくよいことがある。
 この礼拝は、互いに忍耐を要する局面も少なくない。子どもたちが、私語をしてうるさいときは、大人が、愛情深く教え諭すことが大事で、大人たちの厳粛な雰囲気から、子どもたちは、信仰にかける真実な姿を知ることができる。同時に、子どもたちも、自分たちの年代にふさわしい楽しく明るい雰囲気を味わう権利がある。
 また、青年たちは青年たちで、歌いたい讃美、リズムがある。私たちの守っている礼拝の形は、だから、実にダイナミックさを必要とするものなのである。私たちの教会に家族連れが多くなってきているのは、偶然ではない。もちろん、神様のなさることに偶然はない。
 しかし、少なくとも、私たちの教会が、家族で来ても安心しておられる環境を幾らかでも備えているからではないだろうか。共に礼拝し、共に共通した時間帯に学び、共に食事をし、共に行き帰りを過ごせる。少なくとも子どもが小さいときには必要なことだろう。
 安心して、安全に家族が一緒に過ごせ、安らぎや癒しを得られる、教会がそのような場所であることは、私たちの願いの一つである。そして、幼い時に味わった両親や教会の方々からの深い愛情が神様への信頼に移行するのである。


平良師

2008年3月2日 尽きることのない疑惑

2008年05月13日 22時50分31秒 | Weblog
   尽きることのない疑惑

 27年前の事件が、最近またクローズアップされている。いわゆる「ロス疑惑」と言われる事件だ。日本の最高裁判所では、五年前に物的な証拠がなく、無罪になっている事件である。ところが、その事件は、アメリカのロサンゼルスで発生し、あちらでは凶悪犯罪には時効がないそうで、今回の逮捕になったという。おそらく新証拠が出たものと見られる。
 M夫妻が白昼強盗に襲われ、妻は頭を撃たれ死亡、夫は足を撃たれ重傷だった。そして、夫が、妻に掛けられていた多額の保険金を手にしたことから、夫が誰かに依頼し、妻を殺害させたのではとの嫌疑がかけられた。アレから27年の歳月が流れ、日本では無罪となり、誰もがあの事件をすっかり忘れていた中での逮捕ということで、驚きだった。
 どのような新証拠が出たのか、興味のあるところだろう。この世では、罪の有無は裁判所が決める。罪のない者を罪とすることもあり、罪のある者を無罪とすることもある。人間のやることだから、疑わしきは罰せずというのは妥当な判断ではないだろうか。
 アメリカでは、発生した刑事事件の半数が未解決だという。アメリカの威信を示すときとばかり、ということか。ただし、神様の裁きには誤りはない。
 そして、神様の目からは、罪のない者は一人もいないと聖書は語っている。にもかかわらず、神様は赦してくださった。死ぬまでずっと、罪有りという目で見られ、その有無を問われ続けられるなら 、そんな人生はたまらない。


平良師

2008年2月24日 2008年度-さらに仕える教会に-

2008年05月03日 15時10分32秒 | Weblog
   2008年度-さらに仕える教会に-

 2008年度の展望から。礼拝の形は、後ろの扉を開け放つのは、空調、音響、落ち着き等の点で、難点が多いとの意見である。二部礼拝にするには、労力が大き過ぎ、二つの教会になってしまうことも懸念される。多目的ルームのスクリーンとカメラ設置には、試験的にしろ、費用がかかる。一体感の喪失も心配。
 そこで、キャンドルサービスのときに、聖歌隊に講壇に上がってもらったが、あれを日常化すれば、最大150名くらいまでは、扉を閉めたままで礼拝を守ることができるのではないかとの意見である。聖歌隊の皆さんのお気持ちもあるが、当面の苦肉の策か。
 それから、昨年、音楽伝道隊が、国分教会で奉仕をし、仕えることの喜びを味わった。社会委員会ができ、ホームレス支援、久山療育園支援など、仕える教会としてのありようを考えることになる。その中に、近隣の他の教会にも仕えるという視点も加えたらどうか。他者へ仕えるという視点を意識的に取り入れることで、教会の成長に広がりと幅が生まれることだろう。
 そういった意味では、教会バザーも来年度は、建築費返済に充てるだけでなく、その何割かは、どこそこの施設にも献げるということにすれば、対外的にももっと協力や賛同を得られる。
 そして、教会の後継者作り、群れの広がりに伴う交わりの希薄さを埋めるための集会、ご高齢の方々が教会生活を維持できる態勢作りなど、こうした課題は、来年度も継続した取り組みが期待される。


平良師