平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2008年12月21日 クリスマス礼拝にようこそ

2009年01月17日 21時58分22秒 | Weblog
  クリスマス礼拝にようこそ

 クリスマス礼拝にようこそお越しくださいました。歓迎を致します。キリストの教会にとって、クリスマスはイエス様のご降誕をお祝いする行事ですから、一人でも多くの方々とお祝いを共にできることは喜びです。今年も、多くの方々と一緒にお祝いできるようにと案内を多方面にわたりさせていただきました。
 教会の兄弟姉妹たちもこのクリスマスにご友人やご家族をお誘いされたことでしょう。愛しているがゆえにこそ喜びを共にしたいのです。今日初めて教会というところに来られた方々もおられると思います。どうぞ、祝会までお残りくださいまして、喜びを共にしてください。
 今年は、100年に一度の大不況ということで、多くの人々が生活に不安をおぼえています。教会は、キリストが、2000年前に、人類すべての救いのためにこの世に来られたと信じている群れでありますが、このお方が共におられるなら、どのような逆境の中にあっても、必ず解決の道は開かれると希望を失うことはありません。
 クリスマスのよきとき、私たちは、キリストのご降誕の意味を毎年毎年噛みしめて、思いを新たにさせられます。そのとき、自分のための道ではなく、キリストのために生きる道があることを教えられます。そして、一人でも多くの方が、この救い主を心のうちに迎えて欲しいと願います。心のうちにキリストをお迎えするなら、その人には今年こそ真実に、クリスマスが来たと言いうるでしょう。

2008年12月14日 日本人の魂はどこに行くのか

2009年01月11日 00時07分09秒 | Weblog
 日本人の魂はどこに行くのか

 今年も残り僅かとなり、クリスマスが近づいてきた。政治的、経済的に不安な時期がやってきたことは、全世界的な現象のようだ。はっきりはいえないかも知れないが戦前には、あまりなかったような事件が頻発するようになった。

 今の日本は、自分のことしか考えないで、人のことはほとんど考えようとしない人がふえてきたように思われる。戦後の物資欠乏の状態が長く続いたために、心を失って物と金銭の虜(とりこ)になってしまったのだろうか。学校教育のせいにする人もあれば、家庭の教育のせいにする人もある。20世紀後半は、日本では資本主義と個人主義の著しい発展が見られた時代であった。貧を克服して富を獲得し、不便や病気を克服し、快適な生活が、人間の成功であり善であると捉えられてきた。

 日本人の魂は一体どこに行ったのだろうか。日本人の宗教は一体何なのだろう。神棚があり,佛壇があっても(私の生家はそうであった)、教会に行き、幼稚園に行き、教会で結婚式をあげ、亡くなるとお寺で葬儀をする。外国人の中に、「ニッポンは不思議な国だね!」と感心する人がいるのも無理はない。

 私は、これからの日本はこのあいまいさの中にあって本当に正しい、本当に人間同志が信頼し合える家庭生活を、また社会生活を築いていくことを体得していく必要があると信じています。このあいまいさの中で眞理の愛をもって、地上に来られた神の子、イエス・キリストの存在に目を向け、信じて委ねていく生活を始めることが、私たち日本人の救いと喜びの初まりであり、全世界の平安と喜びに至る道であると確信します。


松村師

08年12月7日/09年1月4日 スモールグループを考える

2009年01月05日 23時54分05秒 | Weblog
  スモールグループを考える

 スモールグループ(小集団)を作る意味は、教会に呼び集められた群れが、より神の家族としての交わりを実現するためのものだ。

 しかし、これは、教会員相互の交わりは、この程度でよいと思う方もいるのであるから、この小集団は、あくまでも希望する者たちのグループであって、決して、すべての教会員が、これに参加しなければならないというようにはしない方がいいのであろう。

 この小集団は、豊かで深い交わりを通して、相互にキリスト者として、癒しをいただき、成長していくことを目的としている。毎日の暮らしで起こった出来事などを分かち合う。興味・関心事・悩み事などを共に分かち合うのである。また、聖書の学びや証しなどは集会にはなくてはならないものとなろう。その小集団には、牧会的なリーダーが必要とされる。

 そして、そのリーダーになってもよい、あるいは、是非ともそのリーダーを務めたいという方は、ある程度の献身的な思いを持っている人が望ましい。そして、その人に対して教会は、その小集団のリーダーとしての委託を行うのである。

 小集団のリーダーとなった人は、その家庭を開放していただいて定期的に集会を開く。そして、主日の礼拝は、すべての小集団が、一堂に介するときとして位置づけられる。小集団をどのような枠組みで作るか、リーダーの役割と育成、また、小集団のあるべき姿をどのようにイメージしていくのか、少しずつ報告していきたい。

 今の日本社会は、人間関係においては薄い時代である。薄いということは、個々が孤立しているということ。たいへんなことがあっても誰も助けにならないし、助けようともしない。互いに助けを求めようという気も起こらないのではないだろうか。他人のことには必要以上に関心を払わない、そのようなクールな時代なのではないか。

 自分の存在を知る人もいない。誰でもいいから殺したかった、と無差別殺傷事件を起こした加害者たちは語っている。追い詰められて、自分という人間がこの世にいたことを、彼らは最後に主張したかったのではないか、と分析する学者もいる。スモールグループを作る意味は、人間関係の濃さを求めるというものだ。

 時代が、失ったものを取り戻そうという試みである。時代に逆行していることで、それは、現代の日本社会にはなじまない、と考える人もいよう。人間関係の濃さなど、現代人は望まないと。しかし、私たちは、キリスト者である。イエス・キリストの教会を形作る群れの一人ひとりである。

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」群れだ。スモールグループにおいて、一人ひとりの悩みや苦しみや喜びが共有されるとき、私たちは、大きな力をそこから得ることができる。聖書の学びもそれぞれの生活の中からの証しを通して、頭だけのものではなくなり、より力あるものとして理解されることになろう。


平良師