平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2015年9月20日 いろいろな目の中でも

2015年09月26日 22時16分31秒 | Weblog
いろいろな目の中でも

 最近、いろいろなスポーツでビデオ判定がある。審判自らが判断つきかねる場合、ビデオ判定に持ち込むこともあるが、審判が下した判定に対して、プレーヤーや監督などが異議申し立てをして、ビデオ判定をしてもらえる。テニスやバレーの試合でも、ジャッジを申し立てると、ビデオなどでプレーやボールの位置を確認して、それによっては、判定が覆されることもある。これにより、さらに正確な判定ができるようになったので、この審判方法の導入は歓迎されている。
 ところが、昨日の広島と阪神の試合、広島の攻撃で本塁打のあたりが、審判の誤審で三塁打になった。それに広島が抗議して、ビデオ判定をしたのだが、それでも結局三塁打との判定は覆らなかった。ところが、試合が終わってから、再度確認したところ、本塁打だったことがわかった。
 しかしながら、試合は成立してしまっていたために、結果は覆らなかったのである。現在、セリーグは、上位3チームの混戦となっており、阪神はこれによりかろうじて首位をキープした。ビデオを見ても人間は間違いを犯す。
 ところで、現在、人の目以外に、ネットの動画やビデオ、監視カメラなど、いろいろな目がある。その目でも、私たちは、多くの情景や現場を見ることができるようになった。そして、同時に見られている世界に住んでいることもわかる。どれもこれも、こわい気がする。しかし、神様の目は、温かくもあるが、これ以上にこわいものはない。


平良 師

2015年9月13日 愛する兄弟姉妹へ-教会の奉仕(ミニストリー)は力を抜いて-

2015年09月26日 22時10分48秒 | Weblog
愛する兄弟姉妹へ-教会の奉仕(ミニストリー)は力を抜いて-

 神様に仕えることは、ひいては人に仕えることになるし、人に、特に弱っている方に仕えることは、ひいては神様に仕えることになる。イエス様は、第一の戒めとして、誠心誠意、「神を愛しなさい」と言われ、第二の戒めとしては、「隣人を自分のように愛しなさい」、と言われた。
 私たちは、神様からいただいている賜物を活かして、それぞれができる奉仕をすればよいことになっている。財務や総務、総会の記録など、対外的にしっかりとしていなければならない部分は別として、他のものは、できる形で、できるだけのことをしてくださればよいのである。その結果、不便さを感じたり、不快さをおぼえることが、あれこれでてきても、それで教会がにっちもさっちもいかなくなることはない。
 責任感が強く、誠実なあまり、一生懸命奉仕をされて、その結果、負担感がつのって息苦しくなり、体調を壊したりされると、とても気の毒で申し訳ない。教会は気持ちを楽にさせるところである。私も、イエス様の弟子であり、イエス様の宣教命令を生きたいとは思う。それは、牧師に限らずキリスト者であれば、皆一応に持っている気持ちだ。ただし、どうか、力を抜いて、かかわって欲しい。
 それでも、準備しなければならないことや、時間をとらねばならないものもある。話し合いを重ね、あちこちと足を運んだりということもある。それでも、どうか、力を抜いて、できる形でやってくださればよいのだと思う。


平良 師

2015年9月6日 高齢化社会の教会へ

2015年09月12日 23時50分44秒 | Weblog
高齢化社会の教会へ

 これからの教会は、日本の少子高齢化社会といった現実を無視して、教会を作っていくことはできない。私は、小学校の4年生の頃に兄に誘われて初めて教会に行った。50年前の話だ。鹿児島市にある教会だったが、中高生や大学生たちも多く、かなり活発に伝道も行っていた。
 30代から40代の方も多く、総会などでは激しく議論が交わされていた。教会学校も盛んで、5.6年生の遠足で、若い先生に引率されて桜島に行ったときの楽しい思い出がある。あの時代は、小学生以下の礼拝だけでも30名くらいいて、大人は70名ほどの礼拝を守っていた。そして、これは、いわゆる高度成長期時代の多くの教会の一般的な風景であり、どこも勢いに満ちていた。
 平尾教会も、1960年から5年間、100名を超える礼拝を守っており、毎年二桁の洗礼者が与えられている。しかし、時代は移り、日本社会は少子高齢化社会となった。そして、その社会がもたらす諸相から、豊かな面や課題を明確にしつつ、どのような教会を目指していくべきか、そのことを考える必要に迫られている。
 教会の営みは、地味であり、何事もこつこつと続ける以外にはないといった認識がある一方、他方では、そうやってこれまでやって来た結果ではないのか、といった声もある。大名の礼拝は、若い人々がその在り方を模索し、進化し続けているが、平尾では、子どもたちやご高齢の方々への配慮、充実をもっと強化していくことが多方面から求められている。


平良 師

2015年8月30日 積極的な平和

2015年09月11日 21時56分36秒 | Weblog
積極的な平和

 積極的平和主義と言う言葉を聞くたびに、イエス様が言われた「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」を思い起こす。あれ以上の平和主義があるだろうか。「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。また、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。
 私たちの憲法の前文と憲法9条の精神は、このイエス様の教えに相通ずる。だから、私は、日本の憲法の前文と9条は、日本の宝であると考えている。私たちの国に、世界に誇るべきものは数あるけれど、崇高でそびえたつものが憲法の前文と9条である。
 昨日のニュースで、半世紀近く平和の問題を考えて来られたある外国人が、積極的平和主義とは、その国の貧困や飢えなどをどうやって解決するか、そのようなことを考えること、それも、近隣の国々の人々と力を合わせて考えること、そのようなことが積極的平和主義の中身だと言われていた。なるほどと思った。その方はまた、武力や威嚇でもって平和を築くといった姿勢は、積極的平和主義とは正反対だとも言われていたが、私も常々そのように考えていたので、納得するものが大きかった。
 私は、この国は、戦後70年間、日本人が戦争をしないで済んだ感謝の気持ちを世界に届けたらよいと考える。それは、過去の反省に始まり、憲法9条の存在の大きさを知らしめることとなろう。キリスト者にとって、イエス様を証しするようなものだ。


平良 師

2015年8月23日 道具は大事、しかし、賜物も・・

2015年09月11日 21時53分25秒 | Weblog
道具は大事、しかし、賜物も・・

 久山ワークキャンプでは、混合油を使うタイプの草刈機を使って、雑草を刈るのが私の例年の仕事になっている。今年、この草刈機では行き届かない細かな部分を鎌を使ってやってみたら、これがほんとうによくて、仕上がりがきれいにできた。また、長靴を持っていったので、これまた、藪のような所へも安全に入り込めて、仕事がはかどった。
 この長靴は、釣用に使っていたものだが、劣化して少し亀裂入ってきたので、防水にはならなくなって、廃棄しようかと思っていたが、今回のような畑仕事にはまだ使えるだろうととっておいたのである。今回は、この鎌と長靴のおかげで、よりしっかりとした仕事ができたと少々満足だ。道具というものは、使い用だとつくづく思った。
 確かに、宝の持ち腐れというものもある。例えば、このパソコン。多くの機能があるのに、おそらく、私が使えるのは1割くらいかもしれない。Tさんが、ときどき、こうすればいいのですよ、と実際パソコンの機能についていろいろと説明してくれるのだが、一向に頭に入らない。我が家の子どもたちからは、それは覚えようという気持ちがないからだ、と厳しい指摘を受けるが、どうもダメである。
 30年くらい前だっただろうか、パソコンが、一般の家庭でも使われ始めた頃、早速、購入して鼻歌などを歌いながら、バンバンやっていた友人がいたが、ああゆうのを見ると、やはり、賜物というのがあるのではないかと思ってしまう。


平良 師