平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2011年11月6日 タイミングを逃さない

2011年11月20日 22時13分52秒 | Weblog
    タイミングを逃さない

 救いに与ることは、幸いなことだ。これは、神様からの招きを断らなければ可能となる。祈ることはできる、という方は、すでに信仰を得ている人だ。なぜなら、神様の存在を受け入れているからだ。しかし、その神様が、どのようなお方なのかをある程度理解した上でのこと。それは、どこそこ神社の神様でもなく、仏さまでもない。私たちを造り、イエス・キリストを私たちのためにこの世に賜った全知全能の唯一の神様である。簡単に言うならば、聖書に記されている神様だ。
 しかし、その理解は、ある程度でよい。神様については、キリスト者になってから、天に召されるその時まで、一生かけて求め続けることになるからだ。それで、バプテスマを受けるときには、おおよそのことが理解できていればよいのである。それに、生涯学び続けても、理解し尽すことはないだろう。大切なことは、救いのタイミングを逃さないことだ。神様は、その人その人に最も相応しいときに、救いの時を用意されている。こんな早くに、という人もいれば、こんな年齢になって、という方もおられる。
 それぞれに与えられている時というものがあって、バプテスマ(浸礼、洗礼)もまた、その一つなのだ。神様の招きをどのように感じるか。あなたは、わたし(神様、イエス様)に従って来なさいと言われたようで、従って行きたいと思うようになった。イエス様の十字架が、この私のためであったと信じられる、そういうときがその時である。


平良師

2011年10月30日 画竜点睛

2011年11月12日 23時24分43秒 | Weblog
       画竜点睛

 「画竜点睛」と書いて「がりょうてんせい」と読む。中国の梁の時代の画家が壁画に 白い竜を描いて、その睛(ひとみ)を書きこんだところ、たちまち風雲生じて白竜は天に上った、という故事から、「事物の眼目となるところ」「物事を立派に完成させるための最後の仕上げ」を指す言葉として用いられる。
 したがってそれをし損なうことを「画竜点睛を欠く」と言う。二年前に教会員で歯科医の松浦尚志兄に診察・治療・指導をしていただいて以来、私は歯をできるだけ丁寧に磨いたあとに、必ず歯間ブラシを使うようにしている。歯間ブラシが入らない狭い箇所は、フロスと呼ばれる糸を使って掃除する。すると丁寧に磨いたはずなのに、歯間ブラシやフロスによって歯と歯の間に残っていた食べ滓が驚くほどたくさん出てくる。これではこれまでたくさんの私の歯が虫歯にならなかったはずがない、と改めて思い知らされる。
 まさに「画竜点睛を欠く」を地で行っていたわけだ。以前もこの欄に書いたことがあるが、私の長兄は74歳になった今も虫歯一本ないほどに、いつも丁寧に歯を磨いている。最近「歯間ブラシも使うの」と訊いたところ、「ああ、使っているよ」との答えが返ってきた。なぜもっと早くそのことを教えてくれなかったのか、と言いたかったが、もちろん訊かなかった私が悪い。そんなに高価なものではないから、この歯間ブラシを、とくに若い人たちにはぜひとも使ってほしいと思う。
 スイスに留学していたときに、一緒に留学していた日本人の友人が、3本のひどい虫歯を抱えた小学生の娘さんを歯科医に連れて行ったところ、「あなたは親としての責任をまったく果たしていない」とひどく叱られた、という話をしてくれたことがあるが、総じてヨーロッパなどと比較すると日本人の歯磨きの不徹底さは際立っているように思う。広くは原発の後始末が、そして平尾教会では現在立案中の大名クリスチャンセンター(仮称)が、「画竜点睛を欠く」ことにならないように、お互い注意していきたいものである。


青野師