平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2015年5月24日 沖縄のための祈り

2015年05月30日 23時19分30秒 | Weblog
沖縄のための祈り

(以下の祈りは、2015年5月の「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」において朗読された祈りである。)
 主なる神さま。日々の「お守り」を心から感謝いたします。しかしその「お守り」のなかに、沖縄の人たちが最も切実に望んでいる沖縄の真の「平和」が含まれていないことに、深く心を痛めております。しかしそれは、あなたの責任では決してなく、ひとえに、沖縄以外の場所に住んでいて、沖縄の人々の痛みをほんとうには共有できていない者たちの、すなわち私たちの、責任です。どうか私たちに、そのことを深く認識させてくださいますように、そして沖縄の人たちとの真の連帯のなかへと、私たちを置いてくださいますように、お導きください。
 なかでも、安倍首相を始めとする日本政府の責任ある立場の人々の在り様を、どうかあなたが厳しく正してくださいますように。沖縄県民大多数の明確な意向を無視して、普天間基地の辺野古移転を当然視し、米軍基地とともに生きなければならないという苦難を強いられている沖縄の人々に、さらなる苦痛と苦悩とを与え続けることがないためにも、彼らの政治的な判断を、誠実かつ良心にもとるところのないものとしてくださいますように。
 集団的自衛権の行使を認めるという閣議決定によって、この日本の国を「戦争のできる国」へと変貌させようとしている彼らに、真実には何が求められているのかについての、曇りのない目を与えてくださいますように。そしてこの日本の国が、かつて敗戦の時に誓い、そしてその後、憲法9条によって継続して守ってきた「非戦平和」の道を、断固として選び続けて、真の世界平和を造り出していく、その先駆けとなり得ますように、あなたが常に先立ってくださり、私たち一人ひとりに豊かなお導きを与えてくださいますように、心よりお祈りいたします。
 沖縄県民の意思を体現するために苦闘しておられる翁長県知事を始め、責任ある立場の一人ひとりを力づけてくださいますように。そしてまた、沖縄の平和のために祈り、かつ行動している沖縄のキリスト教会に連なる一人ひとりを、強く支え続けてくださいますように。主イエスの御名によってお祈りいたします。アーメン。


青野 師

2015年5月17日 赦されて生きる

2015年05月23日 15時02分05秒 | Weblog
赦されて生きる

 キリスト者たちが体験したことは、神様に赦されて生きるということだ。私は、特に、牧師になってからこの意識を強く持つようになった。自分などは牧師と呼べるような者ではないとつくづく思う。そういった意味で、バプテストの牧師には、資格などないというのは、実にありがたい話である。
 私もまた、他の信徒の皆さんと何ら変わることのない人間である。優しさも親切さも、普通なのではないか。違うのは、強いて言えば、神様から牧師と立つようにと召命感をいただいたことぐらいである。そして、おそらく、牧師の誰もがこれだけで立っている。そして、その思いを教会に認めていただいて。そうでなければ、やりたいからやっているということにしかならない。
 先日、一週間に下血が二度ほどあって、いよいよ私も神様からここらでよい、と言われているのかと思った。それにしても、ここで辞めるのは、余りにも無責任だろうなあと、申し訳なく思ったりもした。でも神様の御心であるなら致し方ない。病院で内視鏡検査したところ、内痔ということだった。まだまだ、働きが足りないということか。ここ数年、私も随分ともがき苦しんでいるのだが、それでも足りない、ということのようだ。
 神様がハイそこまでと言われるまでは、与えられた職務に励む以外にない。何の資格もないバプテストの牧師は、神様に、そして、信徒の一人一人に赦されてその務めを果たしているに過ぎないことがよくわかる。


平良 師

2015年5月10日 ほんとうに出会う

2015年05月16日 22時10分58秒 | Weblog
ほんとうに出会う

 その人が実際は、どのような人なのかは、よくよく付き合ってみないとわからない。その人のことについて知っているようでも、ほんとうのところまではわかっていないのではないかと、思う昨今である。一番よくないと思うのは、また、残念と思うことは、偏見や予断でその人を判断していることである。
 私はかなりその点については、そうした過ちをしないようにと気をつけている方だと思っているが、それでもあるとき、この人は、このような人だったのだ、このような一面もある人だったのだと、気付くことがある。それが好印象のときは、うれしくなる。そして、そのようなあなたにこれまで気付かなくてごめんなさい、といった気持ちになる。
 どうして、そのあなたに気付かなかったのだろうか、と思う。もっと早くに気付いておれば、さらに良好な関係を築けたのに。それでも、それまで知らなかったその人の一面に触れ、それもうれしい発見をしたときは、ほんとうにこの人と出会ったのではないかと、感動をおぼえるのである。「出会い」という言葉があるが、私たちは、イエス様と真実に出会ったのだろうか。否、出会わされたということであるが。
 イエス様と出会ったといいながら、あのエマオ途上の弟子たちのように、大事なときにイエス様がわからなくなっている私たちである。また、出会おうとなさっているイエス様がおられるのに、そのお方を拒否してしまっている自分もいる。


平良 師

2015年5月3日 憲法記念日に思う

2015年05月09日 22時41分57秒 | Weblog
憲法記念日に思う

 私たちの愛する日本国憲法は、平和憲法と言われる。そして、その憲法の前文は、聖書の次にすばらしいと常々思う。前文を読むたびに、世界に誇れるものはやはりこれだと思う。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。政府によって、再び戦争が起こらないようにするために、この憲法は作られた。
 にもかかわらず、政府は、この憲法をないがしろにし、国民の意思を無視して、再び戦争をする道を歩み始めているのは残念。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と存在を保持しようと決意した」。
 私たち日本人は、どうやって我々の安全と存在を保持しようと決めたかというと、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ということである。強力な武力を保持し、それを使用することによってではない。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。
 だから、私たちは、「自国のことにのみ専念し、他国を無視してはらない」。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」。この前文が、崇高な理想であるのは承知の上だという。そして、誓っているのは、私でありあなたなのだ。


平良 師

2015年4月26日 幸せに生きる道

2015年05月02日 21時05分28秒 | Weblog
幸せに生きる道

 人類全体が幸せにならなければ、個人の幸せもほんとうにはないのだろう。すべての人々に食べ物が行きわたり、すべての人々が健康で、すべての人々が自分の好きなことができ、すべての人間関係において争いがない、こんな世の中になったらよいと誰もが願う。不幸な人が誰もいなくなる。
 しかし、人間は、人間がいる限り、幸せにはなれないと言った人がいる。人間を不幸にしているのは、人間なのではないのか。人の悩みの種は、人ではないのか。すべての人間は罪を犯してしまうから致し方ない。しかし、人は人がいるからこそ、幸せにもなれるのではないか。人間関係の軋轢があるからこそ、努力を重ねて幸せを築くこともできる。
 アダムはエバと共に生きる道を示された。イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある」と言い切っておられる。人は、そのように造られているのである。だからといって、苦難のままかというと、そうではない。幸せという流れを見い出すことはできる。イエス様は、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われた。
 「世に勝つ」とは、この世においていわゆる成功を収めることではない。富を築くとか、名声を得ることではない。貧しくても、苦難の中にあっても、世に勝つことはできる。それは模範を示されているイエス様のように生きることだ。イエス様のように考え、イエス様のように行動する。そうすれば、幸せに生きられる。簡単ではないが・・。


平良 師