恐怖と安心
神様をこわいと思う。神様はすべてをご存じであるから。偽りもごまかしも、このお方には効かない。体裁を繕っても無駄だし、虚勢を張っても、平静さを装っても意味がない。私たちは、このお方の前に、顔と顔とを合わせるようにして、生かされているのである。
こちら側は、神様の存在をいつも意識していることはないが、神様の方は、私たち一人一人をおぼえ、私のすべてを刻々とご存じでなのである。今日何がうまくいき、うまくいかなかったのかも、喜びや、或いは、落胆した事柄の数々をご存知である。
すべてを知られているということは、そのお方の前ではありのままの自分でいるしかない、ということだ。これはこわいことであるけれども、楽なことでもある。私たちの多くが、ありのままの自分でいることができるのは、家族の前だけだ、そう答えるだろう。
否、家族にも見せたくない一面があるものだ。神様に自分の弱さも醜さも、愚かさも、すべてを知られていることはありがたいことだ。だからこそ、このお方には、自分のすべてをお委ねしていけるのだ。私たちは、多くのことに恐れを抱く。失敗をするかもしれない、自分が自分でおられなくなる予感。
しかし、どん底で支えてくださるお方がおられる。その不安な思いをすべて委ねるとき、神様は助けてくださる。神様はこわいお方であると同時に、安心できる唯一のお方だ。神様だけを畏れるならば、あとのことは、おそるるにたりない。
平良師