平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2007年12月23日 イエス・キリストの教会へようこそ

2008年02月23日 16時06分01秒 | Weblog
 イエス・キリストの教会へようこそ

  本日は、イエス・キリストのご降誕をおぼえての喜びの礼拝に、ようこそおいでくださいました。心から歓迎致します。
 神様は、約二千年前にイエスという神の独り子をこの世に賜ってくださいました。私たちの罪の贖い(救い)のためであったと言われています。以来、この方をキリスト(救い主)と信じた人々が、人から人へとこのお方のことを伝えて、多くのキリスト者が生まれ、教会を作っていきました。
 教会の頭はイエス・キリストですから、私たちを呼び集めておられるのは、イエス様ということになります。当初、私たちは自らの意志で教会へ来たと考えていたのですが、実は、神様のずっとずっと前からのお働きがあり、一人ひとりは導いていただいていたのだと気づかされるのです。
 今年も、いろいろな出来事がそれぞれの人生にはおありだったと思います。日本、世界でもうれしいこと、悲しい、多くの悲惨なことなどがありました。私たちは、どのようにして、こうした人生に起こる、日本社会や世界に起こる出来事を受け止めていけばいいのでしょうか。その意味を考えたらいいのでしょうか。いろいろな見地からそれらの解明は可能でしょう。
 ただし、それでも残る不条理で理解できない事柄が山ほどあります。しかしながら聖書は、ありとあらゆる事柄に対して、多くの神様の視点を示し、解答を与えてくれます。そして、私たちのとるべき行動を教えてくれます。その中心になるのがイエス・キリストなのです。


平良師

2007年12月16日 安永笑子姉を偲ぶ

2008年02月16日 13時53分38秒 | Weblog
    安永笑子姉を偲ぶ

 安永笑子姉が、突然天翔けるようにして逝ってしまわれた。亡くなられる前日の日曜日(12月2日)、私は他教会での説教奉仕で不在だったのだが、女性会の方々の、世界祈祷週間を覚えての集合写真の中で、お洒落な帽子をかぶってニッコリされているお姿を見ると、突然のご逝去がどうしても信じられない。あと少しで90歳を迎えられるところであった。
 30 歳代でご主人を亡くされた笑子姉は、二人の幼い男の子(そのご長男がT兄)を女手一つで育てられ、さらに美容師として、また花嫁衣裳の着付け師として、確固たる地位を築かれて、キャリアーウーマンとしての歩みを凛として生き抜かれた。70歳代まで現役であられたように記憶しているが、その頃の彼女には、一種近寄りがたいような威厳があった。
 そんな笑子姉が、今年の教会での敬老の日愛餐会の席でのスピーチで、「この前礼拝が始まるときに大きな声で雑談をしていたら、青野先生からきつく叱られました。いったい自分は今まで何をしてきたのだろうと、ほんとに反省させられています」と言われたのには、とてもびっくりさせられた。「この前」とは、実はもう二、三年も前のことであり、またそのとき私は別にそんなに厳しい言い方をしたわけでもなかったからだ。
 葬儀の日に智代さんは、「ずっと人の上に立ってきた人だから、その注意はよほどこたえたんでしょう」と言っておられたが、随分前のことに今更ながらふれられて、その上「いったい自分は今まで何をしてきたのだろう」などというような「重い」反省をそれに結びつけられた笑子姉には、驚きつつも、何かとても透明で謙虚な姿勢を感じさせられた。
 高齢になられてもなお笑子姉は、私が推薦する本はいつも購入してくださった。松村祐二郎協力牧師のご長女・松村由利子さんの『物語のはじまり・短歌でつづる日常』(中央公論新社)が最後の本になってしまったが、「卓さんも買われましたよ」と申し上げると、「自分のものがほしいから」とおっしゃった。手渡ししながら、「この本の中に出てくる『助教授』とは私のことなんですよ」と申し上げると、「そーう」と目を細めて嬉しそうな反応をしてくださったが、その感想をお聞きすることは、この世ではついに不可能となってしまった。笑子姉の魂が、主イエスのまことの平安のうちに守られていますように。


青野師

2007年12月9日 救いの喜びをいただかないのはもったいない

2008年02月13日 16時29分23秒 | Weblog
救いの喜びをいただかないのはもったいない

 本日、二人の方が、救われた。そのことが私たちにはとてもうれしい。それぞれの人生に神様は働いてくださり、今日、こうして救いのバプテスマへ導かれた。
 バプテスマは、人生最大の決断の時だ。なぜなら、これからのその人の価値観が、このイエス・キリストというお方へ向かって一転するからだ。それはとてもうれしいことだ。それまでの自分のダメさにいつまでもくよくよすることはもういらない。気にしなければならないのは、神様の目だけである。神様から命をいただき、創造され、愛され、この世界でたった一人しかいない自分の価値をいとおしむことができる。
 この世界は、こんなにも自由なのだと思えるようになる。あちらか、こちらから、上から、斜めから、いろいろな角度から、物事を見たり、考えられるようになる。「そんなの、関係ない」とも、ときに言える。イエス・キリストが、私たちにものの見方、考え方を教えてくださる。
 振り返ることをしないで、前だけをいつも見ながら、歩むことができるようになる。いつも、よい方向で、物事を考えることができる。もちろん、キリスト者になったからといって、人生から一切の災いが取り除かれるわけではない。
 その災いをも、それなりに、受け止められるようになる。時には、恵みとして受け取ることもできよう。良いことずくめである。だから、この世に命をいただきながら、イエス様に従って生きていかないのは、実にもったいないのである。


平良師

2007年12月2日 格付けされる時代に抗う

2008年02月12日 00時06分43秒 | Weblog
   格付けされる時代に抗う

ミシュランガイド東京版が発売された。
 これは、レストランを星の数で格付けするもので、パリでも69なのに、東京では151もの店に星が付いたそうだ。これは、覆面捜査員が実際にそのレストランに赴いて味を確かめての話である。お金をかければ、いくらでも素材を選りすぐっておいしいものを作ることは可能だろうし、そこらはどうなっているのだろうと素人なりに判断基準に疑問を抱く。
 とにかく、このようなものができれば、星印の店に、お客が殺到する。もちろん、私も行って食べたい。そして、それぞれのお店が、競い合うようになって、質の向上が望めていいのだろう。私も近くの店に星を付けてみたくなった。
 まず、河童寿司のジャンボ定食。これは、B兄もお気に入りで、寿司が十貫、鉄火巻きと河童巻きが一個ずつ付き、おまけにあら味噌汁までついていて800 円。この値段でこのボリューム、この味、実に満足である。それから、かつえだのちゃんぽん730円、これは毎日行列ができるくらいのうわさの代物だ。とんかつ屋さんならではの豚のバラ肉がふんだんに使用されている。
 それから、ウエストの梅ぶっかけうどん580円、これまた、讃岐の麺に紀州の立派な梅が一つ、わかめ、しめじ、おかか、半熟卵などが乗り、そこに熱いつゆをぶっかけて食べる、これもさっぱりでうまい。
 物も人も各付けされる嫌な時代になった。私たちは、世にはないキリストの物差しで、いろいろなものを計り直そう。


平良師

2007年11月25日 張仁南先生のお働きに感謝

2008年02月10日 00時45分24秒 | Weblog
  張仁南先生のお働きに感謝

 張仁南先生には、この二年近く、いろいろと教会の宣教活動を副牧師として担っていただいた。先生が副牧師として働いてくださったからできたことが、平尾教会にはいくつかある。
 その一つは、礼拝の前に、その一週間の教会で行われたいろいろな行事をプロジェクターで映し出して、教会の一週間の歩みを共有できたことだ。それから、情報をいち早くU兄へ送ってくださって、ホームページが充実したことである。
 それから、韓国語教室を開いてくださった。教会員2名とそのためだけに来られたご婦人が一名。その方は、礼拝にも数度来てくださった。そして、ピース・ドット・コムでは、青年会、中高生の皆さんと讃美集会を企画担当してくださった。
 そして、中高生、青年の機関紙を発行された。これらは、張先生が来られたことで、成されたことだった。他に、説教、祈祷会、中高生の教会学校教師などを担っていただいた。雑用は数えきれないほどだった。私たちの教会で、有給の複数スタッフによって牧会がなされたことも初めてだった。
 先生が、私たちの教会でご奉仕されたことは教会の歴史に残るし、私たちもいつまでも記憶に留めていたいと思う。残念だったのは、私たちの教会が先生を迎えるにあたり、こちらの備えが十分でない中で、決断しなければならなかったことである。しかし、それもまた、張先生は十分に理解してくださっていた。張先生に改めて感謝し、御礼を申し上げたい。神様に感謝。


平良師

2007年11月18日 人間の行動範囲

2008年02月06日 18時46分06秒 | Weblog
     人間の行動範囲

 こちらに来た頃、私は教会と隣のアパートにあった牧師館との行き来しかしていなかった。買い物も専らここらあたりだけだった。それが次第に、動く範囲が広がり、天神などにも行くようになり、あちこちとでかけるようになった。人間の行動範囲は、次第に広がっていくものだ。
 あるところに住んでいても、徐々にその行動範囲、活動範囲は広がっていく。それは自然なことである。子どもたちが、成長するにつれて、自分の家を出て、近くの公園で遊ぶようになり、それから、お友達の家に行ったり、お買い物といったお手伝いまでできるようになる、そうしたプロセスを考えるとわかる。
 何十年たっても、動かないでいるということはありえない。私たちの教会も開拓伝道によってできた。開拓伝道によって、長住教会も産み出された。キリストの教会こそ、どんどん広がって当然なのである。「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」。このイエス様の宣教命令一つ考えても、教会から出ていくことが、教会にとって自然であることをうかがわせる。
 教会は待っているよりは、出て行くことの方が、教会らしい。私たちの教会も、「出て行って」を今年の夏、大いに体験した。音楽伝道隊が、国分教会にご奉仕にでかけたが、皆さんが、大きな恵みをもらって帰って来た。「出て行って」何をするかと言えば、収穫を期待しつつ、他者への救いをさらに求めて、積極的に人に福音を伝え、教会に誘うことだ。

2007年11月11日 教会が行うサービス

2008年02月05日 23時03分30秒 | Weblog
   教会が行うサービス

 郵便局が民営化されて、局員の制服が変わったり、年賀状を出す習慣を広げるためのキャッチフレーズをテレビで流したりと、いろいろな企業努力をしているようだ。
 これまでは、年賀はがきで、年明けにお年玉賞品の抽選はあったが、今度からは年賀はがきをまとめて買うと、これまた買った者も抽選により賞品がもらえることになった。つまり、これまでは年賀状をもらった人に賞品が与えられるチャンスがあったのが、買う側にも賞品が与えられる。
 民営化で、他に何が変わったのか、徐々にだが理解できよう。しかし、民営化になるとたいしたもんだ。やはり、商品を売るために一生懸命努力をするようになった。何かしら、局員も親切だ。民営化というのは、単に経営が民間に移るということもだが、市場原理の中で、生き残りをかけて似たもの同士が競争をし始めるということでもあろう。
 教会は、キリストの教会だから、互いに協力することはあっても、競争は必要ない。ただし、いわゆる、おもてなしの心はとても大事だ。そして、教会が行う真のサービスというものがある。豪華景品を差し上げることはできないが、地域への奉仕というものは考えられる。
 そして、その一番の奉仕は、言わずと知れた伝道である。これは、無償の救い、永遠の命を地域に住む一人ひとりがいただけるように、奉仕することである。こんなサービスをする人々もいないだろう。非常に高価なものを無料で提供しようとしている。


平良師