平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2013年10月24日  目を覚ましていよう(その2)

2013年11月30日 13時30分41秒 | Weblog
目を覚ましていよう(その2)

 公教育の中に「君が代」斉唱と「日の丸」掲揚とが導入された際に、「これは決して強制ではありません」との政府の言い訳がなされたことを憶えている人は 少なくないと思う。ほんとうにそう言ったのだった。それがどうだろうか。昨今は、教師が、起立はもちろんのこと、口を動かしてはっきりと声を出して「君が 代」を歌っているかどうかが厳しくチェックされ、そうしない者には罰則が加えられる。
 もちろんどのような法律であれ、時の変化とともに内容も周りの環境もある程度変化することはありうることだが、それにも一定の限度というものがあるだろ う。このところの安倍政権が次々に打ち出してきている「憲法改正」、「集団的自衛権の確保」、「秘密保護法制定」、「教科書検定における『自虐史観』の排 除」などなど、あまりに性急な「保守化」、というより「右傾化」を促進させる手立てには、もう呆れて物が言えないほどである。
 戦後の民主主義教育を「戦後レジーム」と貶めていた安倍政権の再登場で、このような事態になることは避けられないだろうとは予想していたが、これほどの スピードでことが進行するとは思っていなかった。戦前になした自分たちの、あるいは自分たちよりも前の世代の「野蛮な行為」を心底悔い改めて反省し、再出 発することは、決して「自虐」などではない。「自分たちはそれほどひどい民族ではなかった」と開き直ることこそ、その人の「高潔さ」とはまさに逆の「卑劣 さ」を証しているように私には思われる。
 11月13~15日の連盟第59回定期総会でも、「憲法改悪を許さない私たちの決意表明」が採択された。この2013年という年が、あとで振り返ったと きに「大きな曲がり角であった」ということにならないように、いつも目を覚まして、WWJD (What would Jesus do? イエスさまだったらどうなさるだろうか)と考えながら歩んでいきたいと強く思う。


青野師

2013年11月17日 力を入れるべきところを求めよう

2013年11月23日 21時51分03秒 | Weblog
力を入れるべきところを求めよう

 フィリピンの台風被害は、甚大で、多くの死傷者が出ている。主の慰めと憐みをお祈りしたい。当教会でも、被災地への募金を呼びかけることになろう。大型の台風の発生率は、地球温暖化の影響もあって、これからますます高くなるようである。瞬間風速90m、5mの高潮など、想像もつかない。
 たとえば、農業で暮らしを立てていた国々が、工業にも力を入れるようになり、皆が同じように豊かさを求めるのは当然のことであるから、誰がどう考えても、地球温暖化は必至ということになる。これまで貧しさに喘ぎ、今ようやく豊かさを求めて歩み始めた国に、あなたの国はそのままで我慢していてください、などと誰が言えるだろうか。
 いずれは、自然エネルギーに頼らざるを得なくなるので、それに見合った産業しかできなくなるのであるが、しばらくは、この温暖化は止められそうにない。いくら災害に備えると言ったところで、強大な力の前に、人間の力はひとたまりもない。実際、恐竜絶滅の原因となったのは、巨大隕石が地球に衝突したというのであるから、そこまで考えると、私たちの備えなどお手上げなのである。
 自然災害について、連盟もいろいろと支援体制を整えているが、個々の教会が少子高齢化を迎え、後継者を育成できないまま疲弊しているなかでは、救援したいとの思いを具体的な形にすることもままならない。何事もどこに力を入れるとその課題は乗り越えられるのか、神様からの知恵を求めよう。


平良師

2013年11月10日 大名クロスガーデン完成、そして活動開始、1周年を迎えて

2013年11月16日 13時03分24秒 | Weblog
大名クロスガーデン完成、そして活動開始、1周年を迎えて

 建物が完成し、活動が始まって1年が経った。主の与えてくださった恵みを数えてみる。JOYSHIPとアーベントチャペルが行われるようになって、それぞれに20名程度の方々が集われるようになった。少しずつではあるが、それぞれに固定した出席者も与えられてきた。
 金曜日のくつろぎカフェは、これも回を追うごとに、訪問者が増えてきているように思う。久山療育園の園外保育で利用してくださるようになったのはうれしい。それから、コンサートや諸イベントが行われ、代表の方が礼拝に出席し、大勢の人々がここに足を運んだ。コンサート、カフェ、多読、被災地を忘れない、久山支援など各種ミニストリーの活動が行われるようになった。
 一方、課題も見えてきた。働き人が足りない。昨年よりスタッフと呼べる人も増えたが、それでも追いつかない。急激な変化が起こっているとも言える。これまでの組織の上に、さらにこれらのことを行っているのであって、奉仕をしている方々もいっぱいいっぱいであろう。
 しかし、私たちが行っているのは、主の宣教の業である。種まきの作業である。これからは、種まきの後の作業にも力を入れることが必要となる。また、組織のスリム化も考えねばならないし、平尾と大名の地域性を考え、伝道対象者の絞り込みやその対象者に合ったプログラムなどの提供も工夫しなければと思っている。大名ができたことで、平尾の持ち味と可能性も改めて考えさせられる。


平良師

2013年11月3日 親の十字架

2013年11月09日 20時34分53秒 | Weblog
親の十字架

 最近、子どもの不祥事に対して、責任をとってテレビの番組を降板した人がいる。私は、朝の報道番組は、その人が司会を務めるチャンネルを見ているので、人ごとながら心が痛んだ。番組では、結構辛口の発言をずばりとしていたので、自分の子どもが反社会的な行為をしたとなれば、それも致し方なかったのであろう。
 自分の子育てが、どこかで間違っていたのだろう、と嘆いておられた。タレント業は、私生活も何もないということになるので、その覚悟は誰でもしているのだろうが、このような不祥事を起こす者が家族の中から出たりすると、この時とばかり、事件とは関係のないことまでマスコミは取り上げる。気の毒だと思う。
 しかしながら、この人は、無神経な記者の問いにもカッとすることなく、冷静に、丁寧に自分の気持ちを述べていた。事件以来、子どもとは子どもの家で顔を合わせたが、こちらからは何も言わなかったと述べていた。子どもは、ごめんなさいと詫びたようだ。しかし、彼は何と言っていいのか、わからなかったと、自分の気持ちを素直に語っていた。言葉の端々に子どもへの愛情が伝わってきた。
 自分の子ども、それは、神様にとって創造された私たち一人ひとりが、そうなのであろう。愛情を込めて創造したのに、親の心子知らずで、親に背いて勝手なことばかりやっている。そういった私たちの罪を赦す代わりに、神様自ら痛みを負われたのが、イエス様の十字架だったのだろうか。


平良師

2013年10月27日 聖書か、伝統か・・

2013年11月01日 00時19分24秒 | Weblog
聖書か、伝統か・・

 ある事柄について、聖書には、どのように語られているのだろうか。ルターが始めた宗教改革でたどりついたことは、聖書のみということだった。そして、それまでのカトリックの伝統を破棄したのが、プロテスタントだったのではないか。
 つまり、私たちは、迷うときには聖書にはどのように書かれているのか、ということを問題にする。よその教会の礼拝や集会に出席して、違和感を感ずる光景を目の当たりにすることがある。例えば、讃美のときに、片手や両手を挙げたり、それも、その手を左右に振ったり、なかには頭まで振ったりして讃美している方がいる。それは、恍惚状態に見えるときもあって、キリスト教も宗教の枠に入るのだから、そのような行為もあろうと思ってきた。
 ところが、手を挙げて讃美することの方が、聖書的だということになったら、私たちはどうするか。礼拝前には、静寂の中で、心を整えることを当然のように考えてきたが、そのようなことは聖書のどこにも書いていないということになったらどうか。イエス・キリストの福音が、十字架と復活に閉じられないことは、青野先生の指摘されるところだ。
 自明のこととして行っているけれども、聖書に根拠を置こうとしたら、結構、私たちは目から鱗ということがあるのかもしれない。しかし、伝統というものもまた、そこには、長い年月に耐えうる豊かな内容や知恵が含まれている場合もあり、一概に切り捨てることも危険な行為ではある。


平良師