平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2017年4月23日 神様のお恵みを信じる

2017年04月30日 19時48分05秒 | Weblog
神様のお恵みを信じる

 主の祈りのなかで、教えられていることは、「私たちに必要なパンを、今⽇私たちにお与え下さい(マタイ岩波訳)。今⽇必要な分だけの⾷べ物を、今⽇与えてもらったら、それでいい、明⽇の分まではいらない、そういう祈りだ。2016年度の教会財政をみる時、本当にそうだったのだなあ、と思う。それでも⼗分に感謝なことである。
 決して⼩さくはない⼆ヶ所の建物を管理維持し、⼆⼈の⼈件費を払っていることを思うとき、私たちの教会は精いっぱい献げたのである。前年度まで蓄えていたものを取り崩して、成り⽴っていた会計状況であったが、その蓄えが2016年度はなくなり、まったくの2016年度だけの献⾦で運営したのである。
 2013年度から始まった2カ所で、⼆⼈の有給の牧師をおいての教会運営は、当初は、2年間は⼤丈夫との⾒込みであったが、それが、5年⽬を迎えているのは、神様の⼤きな恵みであり、励ましであろう。
 残念ながら、対外献⾦は⼗分にできなくなったが、それでも、そのような中で精いっぱい献⾦したと思いたい。会計を担当された⽅々のご苦労と捧げられた祈りを思う。1年間の献⾦だけで、何とか運営が可能となったことをまずは喜ぼうではないか。削り、節約する⽅向性も⼤事にしなければならないが、献⾦はあるからするのではないことはご存じのとおりである。まずは、約束したものを聖別し、残りの物で⽣活をするようにすれば、降り注がれる恵みはさらに⼤きなものとなる。


平良 師

2017年4月16日 知りたいこと、知らなければならないこと、知らなくてもいいこと

2017年04月30日 19時43分47秒 | Weblog
知りたいこと、知らなければならないこと、知らなくてもいいこと

 知りたいことは、例えば自分の趣味に関わることで、その情報は多い方が成果も大きい知らなければならないことは、第一に福音、そして、権利の事柄である。税金が戻ってくる、補助を受けられるのに、そのことを知らなかったら損をするだろう。これは国民の権利であるはずなのに、そのことを知らないで不当に自分の権利が侵害されていれば、それも不幸ではないか。
 また、最近の共謀罪法案などは知っていた方がよさそうだ。特にうわさ話などを好む人は知るべし。ところで、知らなくてもいい事、これは余りにも多すぎる自分に対する他人の評価など、知らない方がいい。人様が、自分に対して、いろいろなことを言っていたとしても、そのことをいちいち気にすればきりがない。また、そのことを聞いても、それですぐに自分を変えられるかというと、そう簡単にはいかない。
 長生きしたければ、他人の言うことは右から左がよい。それに自己理解と他人が言われることの間には、相当のギャップがあって、他人の評価が自己理解とほぼ一致していれば、それはすぐに直した方がいいが、わかってないなあ、と思うこともよくある。その場合は、不快感だけが残る。
 先日、私に、「あまり興奮して話さない方がいいですよ」と忠告して下さる人がいた。そのとおりなので、その方の言葉を心に留めおいて会議に臨んだが、ついに興奮した口調になった。でも、忠告してくださった方には愛情を感じている。感謝


平良 師

2017年4月9日 とにかくできることをできる形でやるだけ

2017年04月30日 19時40分37秒 | Weblog
とにかくできることをできる形でやるだけ

 神様のなさることをどのように受け止めていけばよいのだろうか。2017年度は、昨年度と比べて、新たに4つもの仕事を請け負うこととなった。62歳にもなり一般社会で言うと定年を迎える年齢になっているのだから、外部からの仕事の依頼など、ほとんどなくなると思っていた。
 前からのものを加えると、教会以外の仕事を8つも受けていることになる。仕事を断わることはほとんどしないが、こうなると後悔せざるをえない。平尾教会の主任牧師が生業だから、教会の仕事に支障のないようにしないといけない。最近、ストレスなのだろうか、心臓が締め付けられる感じがするときがある。
 否、「それはめしの食い過ぎだ」と妻は言うけれど、妻にだけは言われたくない言葉だ。とにかく、できることをできる形でやるしかないなあ、そう思っている。それにしても、神様は、いったい私のことをどのように思っておられるのだろうか。「お前は、まだまだ、働きが足りないよ。そろそろのんびりやろうなんて虫が良すぎるだろう」。そんな声が聞こえてきそうである。
 今年度は、教会も組織改革検討委員会を立ち上げて、いよいよ二ヶ所でやっている宣教活動がうまくかみ合って、一つの多様性豊かな教会を作り上げることを実現していかなければならない。だから、よその仕事をやっている余裕などないはずなのだが。それなのに、神様は、こんな私を妙にこき使われる。大好きな釣りもどうなってしまうのだろうか。


平良 師

2017年4月2日 イエス様はどう御覧になられているのか

2017年04月30日 19時34分52秒 | Weblog
イエス様はどう御覧になられているのか

 イエス様は、今の日本をどう御覧になられているのだろうか。どこかの首相の言動の
白黒はご存じのはずだから、気の毒にと思われているのか、バカめ、と思っておられるのか。高浜原発の再稼働にOKを出した大阪高裁はどうなのだろうか。よくやったと思っておられるのか、愚か者が、と思っておられるのか。
 各法人への最近の国の指導方針についてはどうであろうか。よく考えているな、それとも、余計なお世話をしているぞ、なのだろうか。私は、イエス様はどうお考えなのだろうかと、ふと思うことがある。イエス様の視点である。常識的なものの考え方や見方が○ということではない。
 まじめな人が○ということでもない。正義感の溢れている人が○ということでもない。いわゆる○が○でないのが、イエス様の視点ではないだろうか。○が×であり、×が○である場合もある。○が△や□でもあるというのが、イエス様の視点ではないだろうか。ときどき、お国のすることは間違いがない、正しいと何の疑いもなく信じている人がいる。
 もちろん、一所懸命、国は、国民の幸せを考えている、はずだ。ならば、どうして、汚染まみれの豊洲市場への移転の話になったのだろうか。どうして、9億円もの国の土地を1億円で売却するということになったのだろうか。どうして、格差社会になってきたのだろうか。そして、イエス様は、私たちのことはどう御覧に、当教会をどう御覧になっておられるのだろうかと、ふと思う。


平良 師

2017年3月26日 自由で多様性を選ぶ

2017年04月30日 19時30分16秒 | Weblog
自由で多様性を選ぶ

 イエス様も初めは、異端者として見られた。当時のユダヤ教の社会にあって、律法を厳格に守ることは、ユダヤ人としてなくてはならないものだった。ユダヤ人にとって、救いの出来事は、自分たちの民族だけに訪れるものであって、異邦人たちには、及ばないものであった。
 しかし、イエス様は律法に対してはかなり自由であったし、救いも、石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができると、ユダヤ人に限らないことを教えられた。そうなると、ユダヤ人としてのアイデンティティーをどうやって築いていけばいいのか、ということになり、イエス様のようにこれまでの自分たちの伝統を台無しにしようとする危険分子は、異端者としてのレッテルを貼って抹殺するしかなかったのではないだろうか。
 イエス様は、自由で多様性を重んじるお方であられた。だから、私たちの教会が、その方向性を選ぶことは、実に福音に適っていることなのである。私たちは御言葉を大事にするが、この御言葉はこの解釈しか許されないといった姿勢をできるだけとらないようにしている。聖書は、いろいろな解釈を私たちに許している。
 しかし、それは信仰に生きる者にとって、ありがたいことなのか、困ったことなのか。自由と多様性を大事にして生きることは、互いを信じ受け入れることにつながるが、まとまりといった点では弱く、混沌とした世界に陥ることも予想される。それでも、自由と多様性を私たちの教会は選択する。


平良 師

2017年3月19日 完璧なもの

2017年04月30日 19時25分04秒 | Weblog
完璧なもの

 聖書は、個々のものを見るとき、それが完璧なものであるとはわからない。しかし、全体を通してみるとき、それが如何に完璧なものかに気づく。およそ、人間が持つであろうすべての感情を表現してみせ、味わうであろう苦悩や悲しみを描き、すべての罪を暴いてみせる。
 そして、人間にとって、これこそ必要なものだといった内容を教えている。問題解決の糸口を教え、注ぐべき力の入れ所を教えてくれる。神様の愛と恵みによって創造された人間は、神様の御言葉(聖書)によって幸せに生きよと勧めているかのようだ。聖書は限りなく多様性に溢れたものであるがゆえに、人間のすべてを扱っているがゆえに、それでありながら、一筋の光のように進むべき道を照らしているがゆえに、完璧だ。
 テモテへの手紙二3:16「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」とあるが、まさにその通りだと思う。そして、次の17節がうれしい。「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」。
 バプテスト派の場合、「神に仕える人」というのは、すべての教会員であろう。私たちは、聖書によって、訓練されなければならない存在であることがわかる。キリストの教会の自由と多様性が生み出す豊かな実りに与るためにも、私たちは(完璧な)聖書によってますます訓練され、神様に喜ばれる業を行っていきたい。


平良 師