平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2013年12月22日 降誕祭のひとこま

2013年12月28日 11時40分06秒 | Weblog
降誕祭のひとこま

 我が家にやってくるサンタは、いつも遅れ気味だった。それで、25日の朝には、決まって扉に手紙が貼ってあり、今から思えば、貼ってあるというのが不自然だったのだが、そこには、なぜ遅れたのかの理由が書いてあった。「吹雪でトナカイがバテてしまって・・」とか、「平良家のこどもたちにあげるはずだったプレゼントだったけれど、途中にかわいそうな子どもたちがいて・・」。
 それから、このようなこともあった。サンタさんは来た?と妻が聞いて、こどもたちががっかりしたように2日たったのに来ていない、と答える。私が、まさか二階の屋根裏部屋ということはないようね、と言うと、こどもたちはあわてて二階の屋根裏部屋に行って、あったア~と見つけたのだった。
 また、頼んでいたプレゼントが来ない場合には、その理由も書いてあった。「サンタは、これでこどもたちが不幸になるとわかっている物は、あげられないのです。それをするのは、サンタではなくサタンです。」ところが、次男は、しつこく3年にわたりゲームを頼んだ。さすがのサンタも、根負けをして、それを届けた。
 しかし、そこにもサンタの手紙があり「このゲームは30分以上すると自然と破裂することになっています」と書いてあったものだから、次男は、最初のうち、今何時と時計を気にしながらハラハラドキドキでゲームをしたのだった。降誕祭にはいろいろなドラマが生まれ、温かなものにすべて凝縮されていくようだ。


平良師

2013年12月15日 奉仕を考える

2013年12月22日 11時12分56秒 | Weblog
奉仕を考える

 キリスト者たちは、この世における教会生活が楽しく豊かで、喜びに満ちたものであることを願っている。キリスト者になることは、同時に、教会につながることを意味している。イエス・キリストは、好きだけれど、教会は好きになれない。イエス様を信じているけれど、教会が必要だとは思わない。などというのは、結婚した男女が、あなたは好きだけれど、あなたと一緒の生活は我慢ならない、というのに似ている。
 教会は、イエス・キリストの体だ。イエス様の花嫁は、教会だといってもいいくらいである。キリスト者である限り、天に召されるときまで、私たちは教会につながって生きる。それも、楽しく豊かで、生き生きとして。そして、天国でも教会の仲間たちとは再会することになろう。豊かで生き生きというのはキリストにつながっているのだから、当然そのようにあるべきだ。
 そのために、いくつかのことを押さえておきたい。まず、教会のかしらであるイエス様は、私たちに何を求めているかである。教会の目的とも言える。教会は日常的にこのイエス様の目的に沿って動いている。真の神様への礼拝と信徒相互の交わりと各々キリスト者としての成長と神様と他者への奉仕と人々を救いへ招くための伝道である。
 特に奉仕は、それを喜びを持って行うためには、好きなこと、関心のもてるものや自分の賜物を生かしたことを行うことである。一例をあげると、フラ讃美、聖歌隊の活動などは、わかりやすい。


平良師

2013年12月8日 あるクリスマスの出来事 ~詩 佐久間 彪~

2013年12月15日 13時37分19秒 | Weblog
あるクリスマスの出来事 ~詩 佐久間 彪~

老いた ひとりの農夫が
ゆりの椅子に 身をゆだねて
暖炉の火を 見つめていた。
 
遠く 教会の鐘が鳴っている。
クリスマス・イブ。
 
かれは もう長いこと
教会に背を向けて生きてきた。
「神が人間になった、だと?
ばかばかしい。
だれが そんなことを信じるものか。」
 
眼を閉じ、薪のはじける音を聞きながら
かれは まどろみかけていた。
 
突然
窓ガラスに 何かがぶつかる烈しい物音。
それも次々に、さらにさらに烈しく。
何事かと、かれは身を起こした。
 
窓際に立って 見たものは
音も無く雪の降りつもる
夜闇の中に
この家をめざして押し寄せてくる
おびただしい小鳥の群れだった。
 
雪闇に
渡りの途(みち)を誤ったのだろうか
小鳥たちは ともしびを求めて
ガラス窓に次々と打ち当たっては
むなしく軒下に落ちていく。
 
かれは しばし呆然と
その有様を眺めていたが
外に出るや 雪の降り積もるなか
一目散に納屋へと走った。
 
扉を大きく左右に開け放ち、
電灯を明々と灯して
干し草をゆたかに蓄えた暗い納屋へ
小鳥たちを呼び入れようとした。
かれは叫んでいた。
「こっちだ、こっちだ、こっちへ来い!」
 
しかし はばたく小さい
命たちは
かれの必死な叫び声に応えず
なおも
ガラス窓に突き当たっては死んでいった。
 
農夫は 心のうちに思った。
「ああ、わたしが小鳥になって、かれらの言葉で
話しかけることが出来たなら!」
 
一瞬 かれは息を飲んだ!
かれは
瞬時にして悟ったのだ。
「神が人になられた」ということの意味を。
かれは思わず その場にひざまずいた。
 
今や、人となり給うた神の神秘にみちた愛が
ひざまずく老いた農夫を静かに被い包んでいた。
かれの上に降りかかり降り積もる雪は
そのしるしとなっていた。


L・ハンキンス 師

2013年12月1日 第59回定期総会に出席して

2013年12月08日 01時19分38秒 | Weblog
第59回定期総会に出席して

 ここ数年の定期総会に思うことは、連盟のあまりにも伝道という旗印を掲げようとしないさまである。協力伝道献金も目標額を下げても、なかなか到達できない。このままでいくと、連盟の活動や事務所体制も縮小せざるを得なくなるだろう。
 おまけに、協力伝道献金の標準比率を細分化して、現状に見合うものを考えたというが、これを実施すると最悪の場合は、1700万円の減収となるという。比率が下がる教会(当教会も)が献金額を下げるのは簡単でも、上げる方は容易ではない。連盟の全国の平均礼拝人数は、ここ30年間、44~45名をいったりきたりである。それでも他教派に比べると連盟は頑張っていると、胸をなでおろしている人々もいる。
 だが、教会学校の出席率は、確実に下がってきている。バプテストは、教会学校で教会を作ってきた教派だとも言える。しかし、昨年度は、教会学校の参加者は、礼拝出席者の58%であった。高齢の方々が、まだ健在のうちはよいが、受け皿を喪失している教会の行く末は、非常に厳しいものが予想される。現に、今年もまた2つの教会が消滅した。
 教会強化は、どこの教会でも必至なのである。もちろん、我々の教会も然り。少なくとも言えることは、これまでと同じことを繰り返していても、連盟の総体は衰えていくばかりである。創意工夫も大胆なものが必要になっている。総会食事どき、貴教会の試みに期待していると声をかけてくださった人がいて励まされた。


平良師