平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2018年10月28日 こだわり続けた人

2018年11月20日 22時09分34秒 | Weblog
こだわり続けた人

 他の人だったらおそらくどうでもよいことだと思うが、その人には、許しがたいと思うことがある。あるいは、その人にとっては見過ごすことができない、ということがある。どちらもキリスト者だ。Oさんは、私の目から見て、それはまずいのではないかと思われることを幾度もなさった。法に触れることでも、ハラスメントにかかわることでもない。
 ただ、もし、誰もが同じことを行い始めたならば、教会の秩序を保てなくなるのではないかと心配をする。しかし、その人は、正直な方であり、自分に嘘をつくことができなかった。そうやって、妥協せずに、理想とする教会の姿と真実にキリストを指し示そうとされたのだと思っている。
 Bさんは、弱っている人を見ると、見過ごすことができない、そういう人である。自分がどのような状況に陥ろうがかまわないといった感じで活動されていた。この人も、こうしたありようで、キリストを証しされた。二人とも、周りをあまり気にすることのない方々であった。キリストにまっすぐな方々であった。二人とも私と同年代である。そして、先日、天に召された。
 お二人のマネは、私には到底できない。キリストに対して誠実に生きられたお二人であったと思う。私は今、自分の中の、あちらのこだわり、こちらのこだわりが、少しずつ希薄になってきたと感じている。そのようななか、この二人の死は、こだわり続ける信仰者の生き方を再考せよと、私に促してくれている。


平良 師

2018年10月21日 人のなかにイエス様を見るとき

2018年11月20日 22時06分21秒 | Weblog
人のなかにイエス様を見るとき

 この私のために、ほんとうに自分のことを犠牲にして仕えてくれる人がいるとき、その人のなかに私はイエス様を見る。その人は、こちらがして欲しいことをしてくれる。それもしぶしぶではなく、快く、願っていることをしてくれるのである。まさに、献身的な行為のように映る。
 イエス様は、人の願っていることを してくださった。病を癒して欲しい人には、そのようにしてくださった。友が欲しい人には、そのようにしてくださった。真理を欲している人には、それを教えられた。イエス様の己を犠牲にしてなさる行為に、人々は神様の愛を感じた。イエス様は、仕えられるためではなく、人々に仕 えるために来たと言われたが、まさにそうであられた。
 私は、つい先日、そのように私のために動いてくださった方の姿を見て、その人のなかにイエス様を見た。心からありがたいと思った。 私は最近とても疲れていると思うことがある。心労をおぼえるときがある。年齢的な衰えもあるのかもしれないが、教会以外の仕事の責任を幾つか負っていることもあるのだろう。そのようなとき、人の親切や情けは、とてもうれしく、感謝で胸が詰まりそうになる。
 これから、私も自分に親切にしてくださったあの人のように、人々に親切にしたいと思う。それは、イエス様の願っていることだと思うから。イエス様の愛を具体的に感じるのは、やはり、人を通してなのだと思った。その人の中に、イエス様が宿っているのだ。


平良 師

2018年10月14日 「行第二里」<第二里を行く>

2018年11月20日 22時03分47秒 | Weblog
「行第二里」<第二里を行く>

 母校の附属中学の校訓に 「行第二里」 <第二里を行く> がある。これが聖書のみ言葉であることを、卒業後に発刊された記念誌で初めて知った。マタイによる福音書5章、山上の説教の41節で 「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」 の有名な箇所である。
 「命令や義務以上に乗りこえ、自ら進んで善を行い、世のためにつくす精神。そのことが、うれしいから行う、真に人間らしい清らかな精神である。」との説明文を見た時、目からうろこだった。この事を教えてくれる先生は、在学当時は誰もおられなかった。2ミリオンは約3kmなので一里まではないが、この教えを実践することは決して容易ではない。
 この校訓を制定したのは初代校長をされた戸川尚先生で、後に玉川大学文学部長となられる。当時の卒業生で長く福岡選出の代議士をされたY先輩によれば、先生は心体ともに徹底した精神主義教育を実践されたと語っている。
 その頃から続けられている行事に、冬の寒い時期に糸島半島一周約60 kmを歩く遠行会があるが、今でも忘れられない体験で、私の山歩きとウオーキングの原点となっている。


諸岡 寛 伝道師

2018年10月7日 的をはずさないですむ生き方

2018年11月20日 22時01分08秒 | Weblog
的をはずさないですむ生き方

 ポイントがズレていると、どのように努力しても無駄であることが多い。時間の割には成果が得られない。罪には、的外れという意味があるが、ちょっと似ているところがある。釣りで、ポイントだというと、そこは魚がいる場所を指す。狙った魚はそこにいないのに、いくら釣り糸を垂れても釣れるわけがない。何時間費やそうとも、無駄である。
 今は、恐ろしい時代で、多くの釣り船が魚群探知機を備えている。だから、その日獲物がなかったということが少なくなった。かつては、船頭さんの経験で、この季節はここらで鯛が釣れるとかといったことを頼りに、船釣りが行われていた。だから、釣果にあたりはずれもあったのである。
 もちろん、いたからといって必ず釣れるとは限らない。魚自体に捕食意欲がなければダメである。だから、捕食活動に活発な時間帯を狙うことなども大切となる。朝夕とか、大潮とかである。けれども、やはりそこに魚がいることが前提だ。イエス様は、漁師たちが夜通し漁をしたが、何も獲れずに落胆して帰ってきたとき、もう一度漁に出ることを勧め、言われた所に網を降ろしてみると、果たして大漁であった。
 ここでのポイントは何か。それは、イエス様が魚のいるところを知っていたということよりも、イエス様の御言葉に従ったということである。罪を犯さないで生きていける人間は誰もいないが、イエス様の御言葉に従って生きていくなら、少しでも的をはずさないですむ。


平良 師

2018年9月30日 DCGの新しい井戸から

2018年11月20日 21時57分44秒 | Weblog
DCGの新しい井戸から

 最近、大名クロスガーデンの玄関に無料の水やお茶のコーナーを設けるようにしている。松村先生が書かれた「主の山に備えあり」(ヤーウェ・イエラエ)との礎石の横に。これは粕屋教会訪問時に知らされたが、元々は粕屋のラーメン屋天龍さんの活動だ。「水を飲みにだけでも、どうぞ気軽に立ち寄って」と。それを平日にも実施したところ、多くの反響があった。
 簡単に言うと、教会への平日の来館が増えたのである。あるお母さんは、「ここってキッズルームも使えますか?」と尋ねてきた。近所には0-3歳が安心して遊べる環境が無く、転勤で越してきて他に頼れる人もいないらしい。ある人は駿台の予備校生で、水をきっかけに、しばらくホールで休んでいかれた。帰りにはわざわざ2F牧師室を訪ねて「ありがとうございました、帰ります」と言ってくれる好青年だった。
 私は安全チェックも兼ねて出来る限り下に降り、お茶を玄関で飲んで、人がいれば声をかけ、説明し、興味があれば礼拝堂も案内する。2019年は、パイプオルガンも入って新しく始まる一年でもあり、献堂7年を迎えるDCG伝道の二期目だと私は位置付けている。道行く人たちの小さな必要に応えていく事から、霊的な必要を満たしていくまでの新しいチャレンジだ。
 エジプトの女奴隷ハガルは荒れ野にて主と出会い、そこをベエル・ラハイ・ロイ(わたしを顧みられれる生ける神の井戸)と呼んだ。私はこの井戸をひたすら掘り続けるし、この井戸に目をやり、この泉、この井戸にくる人に仕える人を、今は祈っている。一週間の内で、一日、午前と午後のどちらかの少しの時間、主とノンビリーバー(未信者)の霊的な必要に用いたいと祈っておられる方は、森まで知らせて下さい。


森 牧師

2018年9月23日 考える基

2018年11月20日 21時54分26秒 | Weblog
考える基

 私たち信仰する者たちは、真の神様のことは疑ってはならないが、人の作り出すものは、普通に疑ってもよいと考えている。ただし、真の神様とは言え、これもまた人間が説く神様の姿だから完全とは言えないことを念頭におかなければとは思う。人の作りだすもの、具体的な形を持つもの、他に制度とか概念とか、それらは完全ではない。
 だから、宗教改革も起こった。私たちのバプテスト派も生まれた。バプテスト派の教会運営は、監督制や長老制とは違い、万人祭司の会衆主義であるというのは、私たちバプテスト派にはとてもうれしいことだ。これは、上意下達式にことは運ばず、すったもんだの末、何事かを決めるということを意味する。だから、会議などは民主的教会運営をする上では、とても大切なものとなり、欠かすことはできない。
 しかし、教会にやすらぎを求めて来られている方々もいるのだから、こうした方々への配慮も忘れないでおこう。それから、各個教会主義の民主的な教会運営は、教会の委託があり、委託された者にその召命感があれば、事は多くの場合、成り立つ。
 それでも、教会の秩序やこれまでの体制から解き放たれて物事を考えることは難しく、常識の範囲とか無難にといった具合で事が進められることが多い。極端にこれまでの秩序から逸脱しないようにと、自己規制をかけることもある。こういうとき、イエス様だったらどうしたのだろうと考える所から始める。すると、多くは可能となる。


平良 師