多様性と自由が認められる教会
私たちの教会が目指している教会の形は、つくづく大きな試みなのだと思う。多様性と自由という点において、多くのものは大目に見られ、受け入れられていく。礼拝を守ること、奉仕をすること、献金をすることなどは、教会員としての責任ということもあるから、多様性を重んじるといっても、いい加減でいいということではない。
しかし、ねばならない教会生活を当教会の教会員は、過ごそうとは思わないであろう。もちろん、そうした信仰のありようも、多様性の一つとして尊重される。神様との関係だけで、各々に与えられている信仰に従って、奉仕も、礼拝出席も、献金もなされるはずである。先週の説教でも語ったように、神様は、十分の一の捧げ物を聖別して、私の倉に納めるように言われている。
そして、私を試してみよ、と言われる。大きな祝福を与えると約束されている。この言葉を信じて、そうされる人もいれば、感謝と喜びのうちに十分の一にこだわることなく、精一杯を献げる方もいる。しかし、多様性と自由を認めるということは、決してその人のありようを非難することがあってはならないのである。
もし、当教会で非難されるべきことがあるとすれば、その人が自分のありようを絶対化して他者を非難したり、攻撃したりするときだけである。イエス様が、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない」と言われたごとくであるかもしれない。
平良 師