平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2019年8月18日 すべての命が宝

2019年08月19日 21時55分50秒 | Weblog
すべての命が宝

 今年の全国高等学校野球選手権大会において、160キロもの剛速球を投げるA投手が地方大会の決勝戦に腕の故障が心配されるとの理由で、監督から出場を断念させられた結果、そのチームは敗戦してしまった。この出来事を巡って賛否両論が飛び交うこととなった。
 A選手の将来を考えると英断であったという意見と、他のチームメイトのことを考えると納得できないという意見である。監督は、才能あるA投手は、これからの野球界の宝であって、無理をさせ過ぎた結果、腕を壊すかもしれないとベンチに入ることすらさせなかった。しかし、これまで甲子園を目指してやってきた他の野球部員たちの心情はどうであったのか。
 彼らは、A投手に比べて、監督のなかでは、犠牲になっても仕方のなかった存在だったのか。A投手が投げておれば結果は違ったかもしれない。少なくとも、控えくらいにはしておくべきだったとの意見もかなりあった。甲子園に出場してくるチームは、今でこそ、複数の投手を擁立しているが、かつては、1人で連投する場合も多く、それは選手たちも監督も覚悟の上であったという。
 しかし、プロになり、多くが腕の手術を余儀なくされている昨今、高校生時代から使いすぎないようにすることは必至になっているのだろう。一つの宝を大事にする行為と、他の部員たちが一生の宝を得ようとする行為を天秤にかけて、監督が選択したものは教育者としてどうであったのか。神の前にすべての命は宝だが。


平良憲誠 主任牧師

2019年8月11日 自由ヶ丘教会説教奉仕

2019年08月19日 21時51分40秒 | Weblog
自由ヶ丘教会説教奉仕

 4月より、第三主日は宗像市の自由ヶ丘教会での説教奉仕が始まった。もう既にたくさんの恵みを頂いています。
 ◎恵み1:月一回と言えども、1か月はあっという間にやって来る。基山の自宅を妻と共に7時半に出発し3号線を北上すれど、車で2時間と平尾までの倍のドライブ、でも日曜で道中はスイスイと導かれる。
 ◎恵み2:私たち夫婦のルーツは宗像である。妻の実家は赤間駅を北上した地蔵尊のある山田、私の母方は宗像大社の近くの神湊である。先日山楽会ミニストリーで宗像孔大寺山499mに登った。釣り場も近く何と平良師の縄張りである。
 ◎恵み3:今回は九州バプテスト神学校からの依頼であるが、要請書は教会代表の福本先生が郵送し忘れたと、わざわざ私の自宅まで持参された。ちょうど留守をしていて大変申し訳なかった。さらに神学部卒業礼拝で、わざわざ壇上で修了証を授与してくださった金丸先生の出席教会である。
 ◎恵み4:5年程前に教会組織礼拝で訪れたことがあるが、改めて会堂が佐賀教会大川伝道所と同じなのに驚いた。聞けば同じ設計者であった。但し自由ヶ丘教会の自慢は百合の花が描かれたステンドグラスである。
 ◎恵み5:以前は赤間駅を通って妻の実家に帰省していたが、赤間にバプテスト教会があったらと願った時期があった。今自由ヶ丘教会に足を運び、その幻の前に立っていることを実感する。7月からは説教奉仕が月二回と主の晩餐が増し加わった。宗像にキリストの福音の光をと祈りつつ、主のご用のために仕えて行きたい。


諸岡 寛 伝道師

2019年8月4日 示された道の選び

2019年08月19日 21時46分59秒 | Weblog
示された道の選び

 私は神様の正義というものを、あのルカ福音書のラザロと金持ちのたとえ、マタイのぶどう園の労働者のたとえから教えられる。つまり、人の生や命は神様によって帳尻が合うようにできているということだ。
 ラザロは、生きている間は、貧しく病をもっており、毎日ひもじい思いをして暮らしていたから、死んでからはアブラハムの横で宴の席を用意されていた。ぶどう園で5時から働いた男は、それまで、誰も彼を雇ってくれず、落胆と焦燥感のなかで過ごしたから、早朝から1デナリオンの約束で自信と安心感のなかで働いた男と同じ報酬をもらうこととなった。
 私は、牧師としてこれまで少なくとも財政的には何の不自由もなくやってきたので、これからもそうであることは神様の正義に反すると考える。それで、これからは財政的には少し苦労をする形で、残りの10年くらいの年月を、もし、迎えてくれる教会があるならばだが、年金牧師という形でそこで働かせていただこうと考えた。
 こうした考えは、年金をいただくことのできる年齢になり、昨年くらいから次第に頭の片隅に生まれた。それが、今年になってからは、毎日のように、続ける、否辞める、辞める、否続けるといったことを交互に日替わりで考えるようになり、ようやく、7月の初めの平尾教会の牧師会で辞することを表明するに至った。そして、7月の執事会でそれを承認してもらったのである。すべては神様から恵みとして示されたことと理解している。


平良憲誠 主任牧師

2019年7月28日 鳥は利口者だって!

2019年08月02日 22時45分09秒 | Weblog
鳥は利口者だって!

 烏は、なんて利口なのだろう。ようやく実ったぶどうの実をまんまと食べ散らかしていった。今年は、何としてでも収穫に与ろうと村部姉が丈夫な和紙で袋をつくり、それを10房(鉢物だから仕方な い)ほどの実にかぶせて、色づくのを待っていた。昨日の大雨で袋が破れたのか、烏なのかはわからないが、何枚かの袋が破れて落ちていたので、先ほどから、村部姉がわざわざまた教会に来て、袋がけをされている。
 その努力に報いようと、私も烏からぶどうの実を守るべく、注意していたのである が、早朝から夕暮れまで、ずっと教会にいることもできず、教会を空けたとき、きっと烏はねらいすましたように飛んできて、ぶどうの袋を嘴で破り、中の実を食べていったのだろう。
 というのも、1月ほど前に、ここから100メートルくらいのところの家のお宅に、立派な琵琶の木があり、黄色の実がたわわに溢れんばかりになっていたのだが、甲斐姉が、「あの琵琶すごいですね、収穫されないのでしょうか」、と言っていた翌日、烏がやってきてあっという間にその実をほとんど食べ尽くしたのだっ た。周辺の道路に琵琶の種だけが散乱していた。
 烏は賢くて、すごい。ちゃんとタイミングを心得ている。いつ、おいしいものをゲットするか、彼らの計算には恐れ入る。しかし、烏よ、人間さまを侮るなかれ、そういうこともあろうかと、私が教会を代表して、1房だけ、こっそりと食べてしまっていたのだ。わかった、カア!


平良憲誠 主任牧師

2019年7月21日 罪が闊歩する

2019年08月02日 22時42分24秒 | Weblog
罪が闊歩する

 線状降水帯、この言葉について聞くことが多くなった。次から次へと湿った空気が入ってきて、発達した雨雲が尽きることなく湧き、多量の激しい雨をもたらす。河川も雨水を処理しきれなくなり、ついには洪水となる。地盤のもろい地域や山間の村落では土砂崩れなどに注意しなければならない。
 このところ毎年のように梅雨の時期、台風の時期、大きな自然災害に見舞われる。人間が発生させた大量の二酸化炭素により、地球温暖化現象に歯止めがきかず、このような極端な気象となっている。これは何も日本だけではない。世界のあちらこちらで起きている。しかし、だからといって、本気でノーと言う人々、怒りを露わにする人々がどれほどいるのだろうか。
 今度の参議院選挙の争点にもならない。各政党が取り上げているのは、大きくは年金の問題、消費税の問題、憲法の問題である。つまり、日々の暮らしと平和の問題に関心は集中している。教育や介護などの福祉についても論じているが、主には先の3つである。そろそろ経済の速度を緩める、皆がそこそこの生活で我慢するしかない。
 しかし、社会は逆行している。そのためサンマも小さくなった。よそのアジアの国々のサンマ漁が盛んになったために、それに負けじと、早い時期に日本もサンマを獲るようになったためだという。目には目をである。クジラ漁も再開された。アメリカファーストといった悪しき例に倣う国が増えてきた。罪が闊歩する時代だ。


平良憲誠 主任牧師

2019年7月14日 九州の被災地を覚えて

2019年08月02日 22時39分18秒 | Weblog
九州の被災地を覚えて

 熊本を襲ったM7の大地震から3年が経過した。最初は物資を皆さんに集めて頂き、菊池シオン教会に届け、その後は避難所でのカフェへの働きとなった。福岡地方連合で食器を集め、仮設住宅への新生活支援を松藤先生(現宣教部長)が主立って行って下さり、その繋がりから南九州地方連合の牧師達や、福岡の教会がタッグを組む形で、仮設住宅支援わくわくカフェが今も継続している。
 これは顔の見える支援であり、関係性を支える支援となっている。今ではカフェの始まる 前に楽しみに来てくださる方やちょっとお洒落してきて下さる方もおられる。先日のカフェでは東京から小浜まりさんが来られ、「いてくれてありがとう」コンサートが行われ、大変喜ばれた。被災地に行くたびに、九州北部豪雨の被災地に関われないことを心苦しく思うと共に、今は仮設住宅の延長、となるように祈り続けている。
 熊本の三つの仮設住宅で行われるわくわくカフェは雰囲気もプログラムも異なるが、根本的な所での基本姿勢は何処も変わらない。現在は、新住居を構え引っ越しされる方が大半となり、仮設は背の高い草も目立ち始めた。又、災害公営住宅に移住される方も増えている。その一方でまだまだ見通しの立たず、動けない人々が暮らせる場所を、という事で仮設住宅の集約も見込まれている。
 私達は、カフェの働きが、義援金があるから続けるという事ではなく、例え、お金が無くなっても続けるという気概だという事を先日の熊本支援連絡協議会で確認した。既に国からの災害派遣の支援制度は無く、南九州にある支援金は今年度迄で底をつくかもしれない。それでも行おう、という人たちの顔は明るく輝いていた。とりあえず、働きがあり、そこに熱意がある人がいること、そして、そのための金銭的な支援を連盟や連合に広く、呼びかけていこう、という事で連絡協議会を後にした。


平良憲誠 主任牧師

2019年7月7日 親玉たちの茶番会談

2019年08月02日 22時35分08秒 | Weblog
親玉たちの茶番会談

 現代社会は、とんでもない社会になっている。反社会的勢力の関係者が開いたパーティーの余興でプロの芸人が働いたとマスコミが取り上げている。これをとんでもないというならば、かの国の某大統領と某書記長の茶番会談は、どう表現したらよいだろうか。
 双方権力欲、物欲の亡者であっても、平和や人権など、これっぽっちも顧みない者たちが、ポーズだけの中味のない虚偽に満ちた会談をやっている。一方は、選挙の得票率を上げるために、また、他方は、疲弊している国民の不満を解消するために行っているというのが専らの見方だが、共通している点は、双方、反社会的勢力の親玉だということだ。マスコミも相変わらず冷笑を浮かべながらも彼らに付き合わされている。
 彼らは軍事力や粛清で恐怖を煽って事を進める輩であって暴力団と何ら変わる所がない。キリスト教界も、彼らが悔い改めることを、ひたすら祈るのみである。悪の勢力が、いつまでも生き延びることはないと聖書は語る。
 しかし、いつの時代にも、悪が現れ出ることも否めない。日本社会では、キリスト者は、屠り場に連れていかれる小羊のように従順で無力な存在のように映っているのではないか。なんだそりゃ!と言いたくなる。キリスト者たちは、平和的手段を用いるが、地の塩となれ、世の光となれ、とイエス様から叱咤激励されている。といっても、升の下の蝋燭では光を届けるどころか、すぐに消えてしまって役に立たない。


平良憲誠 主任牧師

2019年6月30日 終わったところからの希望

2019年08月02日 22時30分24秒 | Weblog
終わったところからの希望

 希望というのは、不思議なものだと思う。もう、終わったと思ったところから始まるのが、本当の希望なのではないか。イエス様の復活もそうであった。誰がイエス様の復活を想定したであろうか。
 確かに、福音書では、生前のイエス様がご自身が復活することを告げている箇所があるけれど、実際、十字架の上で壮絶な死を遂げたイエス様の姿を見て、いったい弟子の誰が、本気で、これからイエス様は復活なさるのだと思っていただろうか。すべてはもう終わった、そうした絶望感に支配されていたのではないか。それだけではない、これからは自分たちがいよいよ捕えられる番だと、恐れ慄いていたことだろう。
 しかしイエス様は神様によって復活を遂げられた。まさに、終わったところから、キリスト教の真骨頂が始まったのである。私たちキリスト者は、常に、こうした終わったところから始まるといった、イエス・キリストによって示された希望に生きている。神学者で牧師でもあったボンへッファーは、ヒトラー暗殺計画に加わった罪で処刑され る最後の日に、「これが最後です。しかし、わたしにとっては、いのちのはじまりです」と語ったと言われている。
 パウロは、私たちに最後まで残るのは、信仰、希望、愛だと教えている。それは、イエス・キリストにあってのことであって、このお方を抜きにしてはありえない。今日から神学校週間が始まる。神学生たちもこの希望に生きることを決めた人々である。


平良憲誠 主任牧師

2019年6月23日 バランスの重要性

2019年08月02日 22時26分27秒 | Weblog
バランスの重要性

 昨年から神学部で「家族心理学」を教えています。教会は家族の集まりで、「神の家族」 とも呼ばれる共同体です。そこで、将来牧師になろうとしている学生たちと、現代日本の家族が抱えている問題を考えています。
 受講生には、家族カウンセリングの手法の一つであるジェノグラム (家系図)を描き、家族関係のもとでの自分史、自分の信仰形成の歴史を振り返ってもらいます。そもそも、私たちはどこまでの範囲の人を家族と呼ぶのでしょうか?ペットは家族でしょうか?人に自分の家族の話をするとき、どんな気持ちになりますか?親に対してはどんなことを思っていましたか?そして今、どう思っていますか?親が私にしたことで、自分の子どもにはしたくないと思っていることはありますか?これら全ては今の私にどう影響していますか?聖書に描かれた家族もそうであるように、現実にも完璧な家族はありません。
 以上の作業をするなかで、学生は、親から受けた愛情とともに、家族の中の傷や暴力の記憶についても向かい合うことになります。それは苦しい作業ですが、作業が終わった後には新しい地平が見えてきたと述べる学生もいます。
 厚生労働省によると、全国児童相談所が対応した児童虐待相談対応件数は、2017 年度 には 133,778 件と過去最多でした。過去1年間に虐待で亡くなった子供の数は全国で36人との警察発表です。家族とはなんでしょうか。教会にできることはなんでしょうか。考えさせられる日々です。


才藤千津子協力牧師

2019年6月16日 バランスの重要性

2019年08月02日 22時21分00秒 | Weblog
バランスの重要性

 何事も限度がある。それを越えるとたいへんなことになる。数値というものがある。その数値を下回っている場合は大丈夫だが、それを越えると病気の疑いがあるということになる。 前にも話したが、木に生息している害虫は、ある数までは被害としては表に見えてこないが、ある量に達すると突然枯れてしまう。
 最近の天候は、異常気象と言われる。突然の集中豪雨、雨の降り方も激し過ぎて、 恐怖をおぼえるほどである。おそらく、地球環境のバランスを保つ何かが限界を越えてしまっているのだろ う。これは、そう簡単には元に戻らないかもしれない。なぜなら、自然の異変について、地球温暖化の影響であると言われてきても、本気でそれの解決を図ろうとはしてこなかった。
 人々も快適な生活のレベルを落とそうとは思わない。水洗トイレに慣れたら、汲み取り式のかつての蠅と蛆のトイレに戻ることはできない。冷暖房のない生活は、熱中症などを考えても難しい。蒸し暑い夏の夜、シャワーを浴びないで汗まみれの体で眠ることができるか。さらに、毎日満腹するまで食べていた人が、地球上の人々が平等に食べるために腹7分目で我慢できるか。人間の罪の問題と関係している。
 だから、この地球環境のバランスを取り戻すためには、すべての人々が、今の生活を顧み、悔い改めることしかない。何事も、表に出てきたときには、その原因となっているものの力が限界を越えて大きく作用するようになってきている。


平良憲誠主任牧師