すべての命が宝
今年の全国高等学校野球選手権大会において、160キロもの剛速球を投げるA投手が地方大会の決勝戦に腕の故障が心配されるとの理由で、監督から出場を断念させられた結果、そのチームは敗戦してしまった。この出来事を巡って賛否両論が飛び交うこととなった。
A選手の将来を考えると英断であったという意見と、他のチームメイトのことを考えると納得できないという意見である。監督は、才能あるA投手は、これからの野球界の宝であって、無理をさせ過ぎた結果、腕を壊すかもしれないとベンチに入ることすらさせなかった。しかし、これまで甲子園を目指してやってきた他の野球部員たちの心情はどうであったのか。
彼らは、A投手に比べて、監督のなかでは、犠牲になっても仕方のなかった存在だったのか。A投手が投げておれば結果は違ったかもしれない。少なくとも、控えくらいにはしておくべきだったとの意見もかなりあった。甲子園に出場してくるチームは、今でこそ、複数の投手を擁立しているが、かつては、1人で連投する場合も多く、それは選手たちも監督も覚悟の上であったという。
しかし、プロになり、多くが腕の手術を余儀なくされている昨今、高校生時代から使いすぎないようにすることは必至になっているのだろう。一つの宝を大事にする行為と、他の部員たちが一生の宝を得ようとする行為を天秤にかけて、監督が選択したものは教育者としてどうであったのか。神の前にすべての命は宝だが。
平良憲誠 主任牧師