平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2009年8月30日 負ける誘惑

2009年10月24日 17時04分32秒 | Weblog
      負ける誘惑

 サタンの誘惑に負ける予感をキリスト者たちはいつも持っているのではないか。私は、釣りが好きなのであるが、この方面からの誘惑が来た場合、それに負ける予感をもっている。サタンの誘惑というのは、自分を破滅ヘと誘う大きな力と説明する人もある。

 最近、覚せい剤を所持、使用した容疑で、逮捕された女優がいた。ひょっとしたら、常習の疑いすらあるということだ。役柄では、いつも清楚な感じであったので、聞いた者たちは、皆驚いたことだろう。先日、ある方とのたわいもない話で、私が、「最近、とても眠くて、講演会とか、人の話になると急に睡魔が襲ってきて・・」と言ったところ、「いいものがありますよ。カクセイザイ!」と小さな声で耳打ちされたのだ。

 この方のいつものキレのいいジョークにどっと噴出したのだった。それにしても、薬物というのは恐ろしいほど蔓延している。知らないだけで、魔の手は、そこらじゅうに延びているのかもしれない。私は大丈夫・・、私の子どもに限って・・。甘いよ、お父さん。イエス様も主の祈りで教えておられる。

 「わたしたちを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。イエス様は私たちの弱さを誰よりもご存知だ。イエス様が共にいてくださらなければ、サタンの誘惑に勝てる者などいないのではないか。ちょっとした好奇心から、欲望に火をつけられて、破滅への道を進む場合もあるが、選択の道がないというような形で迫り来る誘惑もある。


平良師

2009年8月23日 バプテスマのお勧め

2009年10月18日 23時12分39秒 | Weblog
    バプテスマのお勧め

 バプテスマ(洗礼)をバプテスト派では全身を水の中に沈めるので(浸礼)と言うが、そのバプテスマをお勧めしたい。しかし、このバプテスマは、聖霊のお力によるものだから、私がお勧めをしたところで、神様の御心のないところでは、それは起こりえない。
 バプテスト派は、信仰を告白した方に、この浸礼を施す。だから、親の意志でなされる幼児洗礼を認めない。信仰を主体的に告白した者にのみ浸礼は施されるのである。このバプテスマを受ける時が来るのは、教会にどれだけの年月通い続けたかにはよらない。
 極端なことを言えば、一回の礼拝で、信仰を決心する方もいる。内なる己の心に、十字架のイエス様をキリスト(救い主)として受け入れるようにとの御声を、私に従えという神様の御声を聞いたのなら、その方は、応答を迫られた人なのである。そのときは、大いに喜び、勇気ある決断をしていただきたい。そのときを逃しても、神様の御心がある限り、幾度となく、そのような迫りは訪れるだろう。
 しかし、10年後であるかもしれない。死の間際であるかもしれない。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とは、コヘレトの言葉。私も高校一年でバプテスマを受けた。以来人生の節目節目、困難なときに、神様は共におられ、支えて下さった。当教会には、信仰生活70年をもうすぐ迎えられる方もいる。あなたにも、イエス・キリストに導かれて歩む人生の確信と恵みの体験にあずかってほしい。


平良師

2009年8月16日 忘れ得ない8月

2009年10月14日 00時02分57秒 | Weblog
      忘れ得ない8月

 1945年の8月15日が、またやってきた。思い出したくないが、忘れてはならない日である。毎年7月、8月はテレビ、新聞その他で64年前だけでなく、無謀なというより、狂気じみた日本の歴史があらためて報道される。当時の官公庁、軍隊、警察は記録にとどめるべき書類は殆ど焼き捨ててしまっており、歴史に残す記録は少ない。
 しかし、むしろ、韓国、中国で行われた理不尽な不法行為の記録乃至語り伝えられている事柄は、かなり実在しているようである。近隣諸国、東南アジアでの悲惨なできごとは、かくしおおせない程であるが、日本国の政治家、軍隊が国民一人一人を人間としてみることなく、開戦時から敗戦に至るまで、真珠湾攻撃の特殊潜航艇から始まり、1948年以降の回天をはじめとする体当り爆弾攻撃(特攻機、魚雷艇)による人間を弾丸におきかえた戦法をとってきたことはようやくはっきりした事実としてとらえられている。
 このような信じられないような人間理解は、私たち日本人がしかとうけとめ人間の存在、人間の生命の尊厳について、あらゆる角度からよくよく考え直す必要があると考えられる。

2009年8月9日 平和の日礼拝を迎えるにあたり

2009年10月14日 00時00分24秒 | Weblog
  平和の日礼拝を迎えるにあたり

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」(日本国憲法前文後半部分)。
 そして、この平和憲法の具体となっているのが、憲法九条である。この前文と九条は特に何度読んでも、ほれぼれする。聖書の教えと通ずる部分も少なからずある。「殺してはならない」、「悪人に手向かってはならない。右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」、「あなたがたは地の塩・・、あなたがたは世の光である」、「自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」などの御言葉を思い浮かべる。

 憲法前文は、「崇高な理想」と自ら謳う。

2009年8月2日 教会のからだ性

2009年10月10日 20時45分30秒 | Weblog
    教会のからだ性

「教会のからだ性」は、先日、私が九州バプテスト神学校のスクーリングで、私と他2人の牧師が発題者となって行ったシンポジウムのテーマだった。
 教会は、キリストの体である。そして、教会員一人ひとりは、そのキリストの体を作っている肢体なのである。人は、指先の小さな傷一つでも、痛みをおぼえる。それが教会である。一人ひとりの喜び、悲しみが、即、自分のことのように感じられる。それが教会の群れである。特に、痛み弱り果てている方は、この群れの中では中心におかれ、大切にされなければならない。
 ところで、教会のからだ性をどのようなときに感じ取っているのだろうか。これが私の発題内容だった。教会のからだ性は、一つには、礼拝の中でそのことを体験している。キリストの霊の体にあずかっていることを讃美を通し、祈りを通し、神様の御言葉に耳を傾けることを通して知り、一つとさせられた神様に応答する体であることを知る。また、バプテスマ式や転入会式のときに、群れの一員として加えられた新たなる肢体を思って、この群れはキリストによって呼び集められ、キリストという幹につながれていることを知る。
 また、主の晩餐により、互いは、キリストの十字架と復活の出来事によって、赦された肢体であることを知る。さらに、互いの痛みや喜びや悲しみの証しを聞いて、キリストが伴われていることを知る。だから、このキリストの血の通った教会から離れることは命にかかわる。


平良師

2009年7月26日 漢字の読み間違い

2009年10月09日 21時48分24秒 | Weblog
   漢字の読み間違い

 誰でも思い込みで漢字を誤って読んでいるということがあると思う。私は結婚するまで「蜜月」を「みつづき」と読んでいて妻に嗤(わら)われたし、「なだれ」のことを「雪なだれ」と授業で言ってしまったときには、学生たちの失笑を買ってしまった。「なだれ」は「雪崩」と書くのだから「雪雪崩」ではおかしいに決まっている。もっともかなり著名な作家が新聞紙上で「雪なだれ」と書いていたことがあって、ああ、この人もやっている、と少し慰められたことがあるが、しかし誤りは誤りである。
 ある会合でひとりの大先輩が「渦中」(かちゅう)を「うずちゅう」と読む誤りを連発したときには閉口したことがある。なかなか後輩が年長者の誤りを指摘するのは難しいのだから、そこに同席していたその先輩と同年代の人たちに訂正してもらいたかったのだが、誰一人そうはしなかったので、われわれはただ顔を見合わせて「困ったことだ」という表情をするしかなかった。
 それにしても、麻生首相の漢字の読めなさは、一国の指導者としては尋常ではない。未曾有(みぞう)を「みぞうゆう」、踏襲(とうしゅう)を「ふしゅう」、頻繁(ひんぱん)を「はんざつ」、有無(うむ)を「ゆうむ」、詳細(しょうさい)を「ようさい」、措置(そち)を「しょち」、破綻(はたん)を「はじょう」、低迷(ていめい)を「ていまい」、焦眉(しょうび)を「しゅうび」、思惑(おもわく)を「しわく」、物見遊山(ものみゆさん)を「ものみゆうざん」とやられたのでは、国民はたまったものではない。
 天皇の前で弥栄(いやさか)を「いやさかえ」と読んだり、経済通を自認しておきながら前場(ぜんば)を「まえば」と言ってしまっては、歯科を「はか」と読んだ学生がいたが、それと同じ程度だと思われても仕方がない。
 これだけたくさんの誤りを犯してしまったら、首相の記者会見の際に記者に向かって「その言葉の定義は間違っています」などとは到底言えないはずだと思われるが、彼の「上からの目線」は終始変わることはなかったように思われる。
 とくに彼がクリスチャンであること、しかも日本のカトリックの信徒総代だそうであるが、そのことを思うとき、「謙虚さ」と「下からの目線」を備えた、もう少し違った対応がなされえなかっただろうかと考えるのは、おそらく私だけではないであろう。


青野師