平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2018年2月18日 会堂感謝記念日礼拝をおぼえて

2018年02月27日 22時41分52秒 | Weblog
会堂感謝記念日礼拝をおぼえて

 二ヶ所で、宣教活動を行っている教会は、いくらでもある。しかし、それらのほとんどは、片方が伝道所という扱いだ。私たちの教会は、片方は伝道所ではなく、両方が同じ立場にある。そして、結果として、それぞれの地域の特性を活かしながら、伝道対象者に焦点を合わせたスタイルの異なる礼拝を行いながら、それゆえに多様性に富んだ信仰のありようを互いに受け入れ合いながらの宣教活動に取り組んでいる。そして、特に、ミニストリーの働きは、自分たち教会員同士のつながりを超えて、今や地域をはじめ、遠くの福島、熊本の人たちとのつながりまでも生み出している。
 これからさらに、海外の方々とのつながりも生まれることだろう。既に、当教会には、他国籍の方々が幾人も来られている。現代社会は、アメリカファーストと叫ばれるようにナショナリズムの台頭がある一方、その対極として多様性を大切にしようという潮流がある。当教会が、後者を選び取っていることはミッションステートメントからも明らかだが、それを生き抜く覚悟がこれからは必要となろう。
 教勢の上では、極端な広がりはまだ見られなくても、じわじわと下地が整えられつつあることに手ごたえを感じている人は少なからずおられるはずだ。また、3月から大名ではパイプオルガンの設置工事が始まる。それもまた楽しみの一つである。神様からいただいたこの二ヶ所を感謝しつつ、両方の建物を十分に用いることで主の使命に応えたい。


平良 師

2018年2月11日 信教の自由をおぼえて

2018年02月26日 12時44分59秒 | Weblog
信教の自由をおぼえて

 本日、バプテストの観点から世界の「信教の自由」を考えます。17世紀から、つまり2009年に500週年を迎えた今、私はバプテスト派の歴史を感謝し、なお、しっかりと留まろうと努力しています。バプテスト派が大切にしてきたことを2つ取り上げます。
 まず、幼児洗礼ではなく信仰者のバプテスマ(洗礼)です。バプテスト派の先頭に立った一人、ヘルウィスはイギリスの迫害から逃がれ、オランダに行って書きました。「赤ん坊は裁かれていない」、神の恵みによって受け入れられているので、幼児洗礼をする必要はなく、本人の信仰によってのみバプテスマを受けるべきだと訴えました。
 最初から大事にされている二つ目は、信教の自由です。そして、これに関連する政教分離です。ヘルウィスは、17世紀に、信教の自由は、キリスト教やバプテスト派の仲間だけのためだけではなく、「トルコ人」(イスラム教)にも、信教の自由があるのだとはっきりと訴えました。一人一人が良心に従い信仰を選択するのであり、{王様}(政府)が決定する権利はない、と述べました。米国も、日本も、政府が宗教を利用し、愛国主義を煽るようなことがあれば、バプテスト派は社会の番人になるべきです。自由を手にすることは、教会と世間を別々に切り離すことではありません。
 私は、平尾教会のミッションステートメント、「すべての命を大事にし、地域社会に根差して…ともにキリストの愛と平和を実現するものとなるように…」を重んじていきたいと思います。これから、アジアにおける複雑な関係に沖縄が巻き込まれるならば、九州の私たちのことにも関係してくるので、今日、平和と公平を訴える信教の自由を感謝し、個人として良心に従い、教会として国に、社会に声をあげて、覚悟して、受け継いだ使命を果たしましょう。


L.・ハンキンス 師

2018年2月4日 どっちでも!

2018年02月25日 13時52分15秒 | Weblog
どっちでも!

 りんごが木から地面に落ちるようすを見て、当たり前だと思う人もいれば、どうしてなのだろうと考える人もいる。朝、起きて、今日も何だか幸せだなあ、と思う人もいれば、今日こそは何かいいことがないかなあ~と思う人もいる。
 寝るときに、何を考えることもなく眠りにつくことのできる人もいれば、あれこれと心配ごとが頭をよぎって眠れない人もいる。気分が悪くなるまで食べる人もいれば、ほどほどで自然と食べるのをお仕舞にする人もいる。人がうれしくなるようなお話をついする人もいれば、不快になる話を自然としてしまう人もいる。誰かに席を譲りたいと思って辺りを見回す人もいれば、誰かが席を早くたたないかと思って辺りを見回す人もいる。
 お金はいくらあっても構わないと思う人もいれば、お金なんかない方がいいと思う人もいる。連れ合いよりは先に召されたいと思う人もいれば、連れ合いの方が先の方がいいだろうなあと思う人もいる。正直、どうでもいいようなことを書いてみた。
 どちらがいいのか悪いのか、優れているのかそうでないのか、そういうことを言きたいのではない。どちらでもいいのだろう。問題は、何であろうと、どうであろうと、時と場合、状況であって、そういった心もちや行為はその場合イエス様に従うことになるのか、そして、そこには愛があるのか、そこらのところが肝心なことであって、どちらであろうと構わないのだろう。


平良 師

2018年1月28日 多様性に生きる群れ

2018年02月23日 22時05分42秒 | Weblog
多様性に生きる群れ

 私たちの教会の特徴は、多様性をできるだけ認めていくということだ。唯一認めないのは、この多様性を認めることを否定することだけ。しかし、これは、実に難しいことだと、それぞれが実感していることだろう。いい加減さ、だらしなさ、気の利かないことは赦しがたく、まして、道徳的にも、倫理的にも、一角の人物にはとてもこの多様性を認めるというのは困難なことであるかもしれない。
 おそらく、自分はとんでもない人間であって、実にいい加減、めちゃくちゃな人間であり、何をしでかすかわからない、そのような自分に目覚めている人は、他者のことを云々すること自体にためらいを覚えるだろう。申し訳ないけれども、自分を筆頭に、すべての人はでたらめな一面を内包しているように思う。
 残念だが、自分は破れだらけなのに、人の破れはよく見える。自分はあの人よりは、まだましだと思っている時もある。しかし、イエス様が御覧になるとき、お前も同じだよ、と言われるに違いない。多様性を受け入れるとき、受け入れがたい部分を含むことが多い。
 イエス様は、当時の正しい人が受け入れられない人を受け入れられた。私たちの教会が多様性を認めるというのは、「愛します」という宣言と同じであろうと思っている。他国籍の人々、体に病や障がいを抱えている人々、多少の聖書理解の相違、好き嫌いに至るまで、いろいろな違いはあるけれど、我々は、キリストにあって受け入れようとする群れだ。


平良 師

2018年1月21日 寒い冬も・・

2018年02月23日 12時21分33秒 | Weblog
寒い冬も・・

 福岡に戻ってきて、15回目の冬を迎えたが、これほど寒い冬は初めてだ。今日も、ときより雪が舞ったが、明日も明後日も降るという予測。山梨の富士山の麓から戻ってきた最初の冬は、なんと気持ちのいい冬だろうかと、その涼しいとでも表現した方がいいすがすがしさに驚いた。
 山梨でもこれほどの厚着はしなかったと思うが、今5枚の重ね着だ。それにライトダウンを着て、頭には毛糸の帽子をかぶり、マフラーまでしている。ただし、風邪で礼拝を休んだことは、牧師になって26年目、まだ一度もない。それだけ、人様よりも苦労をしていないのかもしれない。神様が、そう簡単には、休ませてはくださらないという言い方のほうが、適切だろうか。
 へこたれそうで、どっこい踏ん張ることができているのは、そのためかもしれない。それにしても、今年はこの寒さのため、野菜も高騰していて困る。魚の捕食活動も鈍くなり困る。しもやけができて困る。インフルエンザが流行して困る。運動量も自然に落ちて困る。しかし、そのうち温かい春がやってくると思えるので、耐え忍ぶことができる。近年の暖冬は嫌だが、こう寒いのも勘弁して欲しい。
 天気予報では、この寒さはこの冬のピークらしいので、ここさえ凌ぐことができればと我慢する。先が見えるというのは、何ごともありがたい。神様も、人生の苦しみに出会ったときには、いつまでこんな状況が続くのかを天気予報のように教えてくださるとありがたい。


平良 師