平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2010年4月18日 神の恵みと祈りの確かさ

2010年05月31日 12時05分21秒 | Weblog
    神の恵みと祈りの確かさ

 プロテスタントの宣教師たちは、1859年、すなわち今から150年前、ウィリアムズ、リギンス(聖公会)が長崎、ヘボン夫妻(長老教会)、ブラウン、シモンズ(改革教会)が横浜、フルベツキが長崎へとそれぞれ来日して、神の御心によって日本人が新たに生まれ変わることを信じて、命をかけて宣教を始めたのでした。
 キリストの小さな種がまかれ、150年の間にどれだけの収穫がみられたか、私たちは宣教のわざの成果を評価する必要はありません。神の恵みと導きによってどれだけの成長が与えられ、若い兄弟姉妹が次第に増え、平尾教会に神の力が与えられてきたか、将来の歩みの上に多くの課題が示され、ますます主のご用のために働こうとする意欲が、各々の会員の方々に満ちあふれてきたように感じられる。
 今の日本の政治的、経済的な状態は必ずしも順調とは言えないかも知れないが、私たちは歴史を顧みて、深刻な危機をいくつか乗り越えてきた忍耐と勤勉さをあわせもっている。人間の知恵と資質だけでなく、神から委ねられている使命を信じて、主の憐れみと期待に応える業を果たすことができるよう努めていきたい。
 教会組織を覚える記念礼拝も間近に迎えようとしているが、平尾教会の愛する兄弟姉妹のそれぞれの生活のことについても、日々、祈りを重ねて歩んでいきましょう。


平良師

2010年4月11日 祈祷会へのお勧め

2010年05月21日 19時04分01秒 | Weblog
     祈祷会へのお勧め

 神様が私たちの人生に積極的にかかわって欲しいと願うのなら、お祈りをすることである。祈りは、いつでも、どこでもできる。祈りは、神様との対話だから、静かで、人のいない所が最適であろうが、忙しい毎日を強いられている者にとっては、時間や場所を選んでいる余裕はない。電車を待つ時間に、昼休みに、苦しい時には随時、祈ってみてはどうだろうか。
 しかし、早朝や就寝前に時間を取れるのなら、聖書を読み、祈りをなす。毎日ではなくても、週に一回であったとしても、やってみるとよい。教会は、毎週水曜日に、朝と夜に祈祷会をまもっている。祈祷会は共同の祈りの場である。教会のこれからの歩みについて祈る、教会員で病の中にある方をおぼえて祈る、人生の岐路に立たされている方のために祈る、いろいろな悩みの中にある方をおぼえて祈る、二人一組で祈り合う。
 祈祷会は、教会活動の中にあって、船の機関室に喩えられる。機関室の働きがなければ、船は目的地にたどりつくことはできない。ただ、波間に漂うばかりである。一キリスト者としての、また、教会としての、願いや目標をもっている限り、私たちは祈ることをする。
 祈ることで、私たちは、神様の臨在に与ることができる。個々人の祈りはもとより、教会は、共同の祈りを大事にする。求める人や教会にこそ、神様は与えることをされる。できれば毎月一度、せめて、一年に一度は、祈祷会に出席していただきたいとお勧めする所以だ。


平良師

2010年4月4日 神様との交信

2010年05月21日 19時04分01秒 | Weblog
      神様との交信

 テレビ電話でのやりとりを教会関係者が2名、それから先日からアメリカに行っている息子と行うようになった。それも無料である。運営している会社は、契約さえすれば、有料でこのテレビ電話と固定電話、携帯電話とがつなげられるようになっていて、そこからの利益で事業をしているようだ。
 もちろん、私の場合は、この無料テレビ電話だけで十分である。便利な時代だ。地球の裏側にいる息子と数秒で交信ができる。それもいくらしゃべっても無料。と言っても、1回、2~3分で話すこともなくなり、「じゃあな?」で私とは終わる。しかし、これが妻ともなると?、それを考えると牧師室でしゃべるくらいでいいのだろう。
 我が家にもパソコンはあるが、おそらく我々だけでは取り付けることはできない。牧師室のもM姉がしてくださったのだ。それも、ちょちょいのちょいだった。やればすぐにできることがわかったが、今の私には無理。息子も四六時中母親と交信することになったら、勘弁してくれ~だろうから、今のままでよい。しかし、いったいどのような仕組みがあって、一時に、多くの交信を可能にすることができるのだろうか。
 それを思えば、神様は、たいへんだ。一時に、多くの人々からの祈りが届けられる。それも、どれもこれも非常に深刻で、困難で、複雑な内容ばかりだろう。しかも、本人が願う答えとは限らず、それぞれにとってもっとも良い答えをもって、交信されようとするのだから。


平良師

2010年3月28日 センサー

2010年05月20日 21時57分16秒 | Weblog
    センサー

 ウォッシュレットとは商品名なのであまり不用意にその語は使うべきではないであろうが、他の呼び方を知らないのでそう書かせていただく。二年ほど前から妻が、そのボタンを押しても時々水が出ない、と言うようになった。しかし私にはそんなことは一度もなかったので、それはボタンの押し方が悪いからだ、とずっと相手にしないできた。ところがこの冬になって、不思議なことに今度は私だけに同じことが頻繁に起こるようになった。
 それはボタンの押し方が悪いからよ、と妻に言われてしまい、「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の測る秤で測り与えられる」(マタイ7・2)というイエスさまの言葉が現実のものとなってしまった。しかし身勝手なもので自分のこととなると、これはきっと故障に違いないと確信して、水道屋さんに来てもらった。すると、どこも故障はしていません、センサーも正常に働いています、とのことであった。
 恥ずかしながらその時になって初めて私は、そこにセンサーが取り付けられていることを知った。それは、人がそこに座っていることをセンサーが感知しない限り水が出ないようにする装置で、たとえ誤ってボタンを押したとしても、噴水のように水が外に、あるいは顔を目掛けて、飛び出したりしないためだそうだ。ただしそのセンサーは黒っぽい色には反応しないことがあるので、その場合にはセンサーの上に白い紙などを置けばよい、とのことであった。
 そう言えばこの冬私は、普段着用している室内用ガウンを新しく黒い色のものに換えたので、故障だと思ったのはまさにそのセンサー無反応の現象だったわけである。センサーの存在そのものすらも「感知」していなかった自分がとても愚かしく思われ、神様の呼びかけに対しても、しっかりと反応するセンサーを果たして自分はいつも持っているだろうか、とこの出来事を通して反省させられた。
 水道屋さんに来てもらったついでに、風呂の湯の出具合が最近とみに悪くなっていたので、それをも点検してもらった。するとなんと蛇口のところに水道管内の錆びた鉄の破片がびっしりと詰まっていた。血管に喩えて言えば、ひどい血栓が出来ていたのだ。神様との祈りの交流においても、こうした「血栓」が出来てしまっているということはないかと、そこでもまた深く反省させられた。


青野師

2010年3月21日 最後のお願いに参りました

2010年05月19日 19時27分36秒 | Weblog
    最後のお願いに参りました

 私は、これまで、平尾教会で幾つかの提案をして、それを認めていただいた。その結果、誠に申し訳ないことに、これまで積み上げてきたものが、私が認識できていないだけで、だめになってしまったというものもあるだろう。逆の場合もあろう。私は、闇雲に行動してきたのでなく、先を見越して、これまで蓄えてきた経験や知恵も出し、祈った。そこに、神様の御心が伴われたものもあれば、そうでなかったものもあるだろう。畏れをもって省みる。
 しかし、2010年もまた、平尾教会のこれからのことを考え、主から託された福音の広がりを求めて、ある試みに踏み切れたらと思う。それは、この2年ほどしつこく主張してきたスモールグループの活動である。それほどまで言うのなら、一度やらせてみるか、そう思ってくださると、実にありがたい。
 私は、牧師として、自分の使命を思う。平尾教会は、牧師として招聘した私にこれまで多くのことを許してくださった。最後にもう一度だけ、チャンスをいただきたい。私は、日本においてキリスト者人口が相変わらず1%未満であることを耐えがたく思っている。
 国内外を問わず大勢で一生懸命に伝道活動をしてきてもこの結果だった。だからこのままでは同じこと。この手法は、かなりの可能性を予感させるのである。ちょっとの間、心を合わせ皆で取り組めば、豊かな実りを得ることにならないか。だめならだめで、他の方法が見えてくる分、結構なことだと思うのだが。


平良師

2010年3月14日 寒中見舞い遅延の申しひらき

2010年05月18日 13時13分12秒 | Weblog
    寒中見舞い遅延の申しひらき

 今年も「寒中お見舞い申し上げます」は、一月に作成して、あとは宛名を書いて出すだけとなっている。昨年もそうだったが、結局、春になり、初夏になり、それは日の目を見ることはなかった。今年こそは出さなければ、不義理もいいところで、大へんなご無礼ということになり、旧友、知人の方々の信頼を失うことは必至である。
 今年のクリスマスカード、来年の年賀状など、もう平良夫妻に出すのはよそうということになりかねない。そうでなくても、なしのつぶてで、不快に思っておられる方々もおられよう。しかし、やはり春となった。そうこうしているうちにきっと4月になってしまう。新緑の季節になって、今年の冬は厳しそうですもないだろう。
 しかし、100枚くらいは宛名を書いていると妻は言う。だから、出すことになる。下手をすれば、ゴールデンウィークの頃じゃないのか。ああ、我々は、もうだめだ。いっそのこと、私たちには、年賀状もクリスマスカードも出さないで・・これもまた寂しい。それにしても、なぜ、できないのだろう。他の方々は、いったいどのようにしているのか。クリスマスカードや年賀状が間に合わないので、寒中見舞いにしているのだが、はやり、この根性がよくないのかもしれない。
 よし、2010年、我々は、誰よりもいち早く、クリスマスカードを出そう。虫の鳴く頃に、我々からのクリスマスカードが届いたら、それは何かの間違いではなく、正解を得た結果だと思って欲しい。


平良師

2010年3月7日 やってみてわかる

2010年05月18日 00時13分15秒 | Weblog
      やってみてわかる

 戦後間もない頃、外国からの多額の献金と多くの宣教師たちによって、どの教会、どの教派でも教勢は急激に伸び、キリスト者の割合は、日本人の1%ほどになった。
 しかし、それ以後は広がらなかった。いろいろな要因がある。日本人の気質、風土、文化事情、宗教感覚、ある人は、明治期に入ってきたキリスト教は知識階層に受容されたがそのままになっていると言う。理由はいくらでもある。だからどうしたらいいのか、ということになると具体案を提示できない。先達も私たちも一生懸命になって、日本における伝道のために働いてきた。決して、なまけていたわけではない。
 しかし、このような状況だ。私は、これはいい方法かもしれないと思われるものは、何でもやってみるとこにしている。それによって、これは確かにいいというものもあるし、これはダメだ、という結論に至るものもある。いずれにしろ、やってみてわかったこと、というのは次のステップにつながる。一番よくないのは、チャレンジすることもなく、伝道のより大きな可能性を無視することだ。
 スモールグループでは、互いが十分に受容されるという牧会的恵みにあずかることができるという。また、テキストを用いて、信仰者としてのこの世における立ち方、基本スタイルを確認できる。そして、祈り合う関係が築かれることで、日常の生活に力を得ることになる。これで大きな広がりがキリスト教に生まれるかどうか、やってみてわかる。


平良師