キリスト者として生きる生活
イエス様に招かれた私たちは、期待されている。それは、人それぞれであって、一応ではない。自分の賜物はこれだから、これを用いて、神様のご栄光を現すことができればいいと考える。私も御言葉を取り次ぐ牧師の奉仕の業を託されていることを誇らしく思う。
これからの平尾教会の歩みを思うと、わくわくする。それは、それぞれが自由に伸び伸びとやりたいことをやって教会生活を送り、それが神様の栄光を現すことにつながっている姿を想像するからだ。
日本というキリスト教文化の薄い社会に暮らすキリスト者たちは、日曜日のしかも礼拝のときだけ、教会にいるときだけ、キリスト者であるという生き方を自ずと迫られる。それが、もし、一週間、どのようなときにもキリスト者であることを喜びながら生活できるとすれば、それに越したことはない。それは決して息苦しいものではない。むしろ、喜びに富むものである。
しかし、やはりそこには工夫と努力が必要だ。一日のどこかで、祈り、聖書に耳を傾ける。週日のどこかで、スモールグループ(SG)の交わりをとおして、仲間たちとイエス様に向かう姿勢を喜ぶ。そして、一堂に介する日曜日の礼拝である。その他に、ミニストリーに加わることで、地域や社会に仕え、神様に仕えて奉仕するのである。それらの生活の中で、キリストを証しする。そして、礼拝、SG、ミニストリーにお誘いすることもでき、それもイエス様にある福音に触れる機会となる。
平良師