ファンから弟子へ
スポーツ観戦をしていて、ファンの気持ちというものについて考えてみた。これについては、様々な形があるのではないだろうか。例えば、球団であれば、熱烈なファンともなれば、ファンクラブや支援の会などがあり、会費や入会することでもらえる特典などもあるのだろう。私もおかげさまで、福岡に来てからすっかりホークスファンになってしまった。
支援の会には入っていないが、ちょっとしたファンである。負けが近づいてくると、もう観ておられず、その場を去ってしまう。時には、不快になったり、腹も立つことがある。勝つと、すっきりした気持ちになって、あとの時間を平安に過ごせる。
私のファンぶりを見ていたMさんが言った。「ほんとうのファンは、その球団なり、その選手なりが、たいへん不調で苦労しているときこそ応援をし続けるものだ」。恥じ入るばかりである。当時もイエス様のファンがいた。いわゆる追っかけも随分いたはずである。ところが、己の期待に応えようとしないイエス様を見て、人々の中には「十字架につけろ!」と罵声を浴びせる者も出てきた。
スポーツはおもしろいが、どうしても勝利しないと収まらない性質を持っている。裁判にかけられ、十字架におかかりになったこの無力なお方のファンであり続けることが大事だ。そして、もっと大事なことは、この無力なお方の弟子になることだ。何を学ぶかって?勝利した者よりも、敗北した者から学ぶことが多いように思うのだが。
平良憲誠 主任牧師