主からの賜物も赦しも十分
言葉によって人は傷つきもするし、励まされたりもする。同じ言葉でも、その運び手によって、心に強く響くこともあれば、そうでもなかったりする。日頃のその人となりを問われているとも言える。しかし、この人となりも、自分が理解している姿が、その人の真実の姿かと言えば、それもまたわからないのである。人の内面は分からない。
いい加減に見えても、その人は、本当はとてもまじめな方かもしれない。自分を上手にアピールできる人もいれば、それができないで損をしている人もいる。また、この人は罪を犯すような人ではいと思われていた人物でも、人は変わりうるのだというのが聖書が教えていることだ。それほど人間は弱い。
つまり、人は状況の変化によっていかようにでも変わりうるのである。極端だが、それを拒否すれば生活が危うくなる、命さえもどうなるかわからないということになれば、信念を捨てたり、信仰さえ捨てることもあるし、前言を翻すことも行う。また、色々な誘惑がその人をダメにするケースもある。そもそも誘惑とはちょっとした心の隙間に忍びよるものだ。
東京都知事のI知事は、高額なお金のやりとりを指摘され、M知事は、公私混同の過ちを犯したということであった。私は、牧師としての知恵をもう少し欲しいとは思う。遅きにあるが、性格的にももうちょっと上品であればとも思う。答えは予想できる。パウロと同じで、「十分だろうが」と、神様は言われるのだろう。
平良 師