できなくなることもまた恵み
自分にできることは何かと考える。ある程度、これならできるのではないかと思われることが3つくらいある。それで、この3つの内のお金をもらえるくらいのレベルで、つまり、お仕事として成り立つのはどれくらいかと考えると、ほとんど何もないことがわか る。
そうなのである。自分は誠に大したことのない男だと思う。ただ、ただ、教会の皆様のお情けにすがって、これまでやってきたに過ぎないと思う。人は、20代後半から次第に衰えていくらしい。徐々にであろうが、それが、急速に早まるのが、60代を越えて くらいからだろうか。私もガタが、あちこちとでてきて、「体力の限界と気力の減退」とよく相撲取りが引退を表明するときの理由に上げることがあるが、まさにそんな具合である。
ただ、ありがたいのは、そのような中でこそ神様のお力が十分に働かれるということを、キリスト者たちは教えられていることである。そのようになればなるほど、ますます、内なる人は新しくなっていき、神様が働いてくださる部分が増えるのだ。キリスト者たちにとって、年をとることも、あれもこれもできなることも恵みである。このような自分を恥じることなく、悠々とこれからも生きていこうと思う。
何ができなくなっても構わない、持っていたものを失っても構わない。できなくなったことや失ったものを数えていく人生はやめて、これからは目に見えないけれども得られたものを数える人生を過ごしたい。
平良憲誠 主任牧師