彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

7月11日、保元の乱

2012年07月11日 | 何の日?
保元元年(1156)7月11日、平清盛らが白河北殿に夜襲をかけ、保元の乱が決着しました。

この乱のそもそもの始まりは天皇家の家督争いにありました。白河上皇の孫である鳥羽天皇に待賢門院(藤原璋子)という女性が入内したのですが、待賢門院は白河上皇に育てられた娘で、孫に嫁がせながらも不義の関係を結び、その結果白河上皇の子どもが生まれたのです。
白河上皇の子どもでありながら。鳥羽天皇の子として育てられた皇子に、白河上皇はすぐに天皇の位を譲るように命じました。これが崇徳天皇です。

やがて白河上皇が没すると、鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて実子である近衛天皇を即位させたのです。
そんな近衛天皇が年若く崩御すると、今度は鳥羽上皇と待賢門院の間の子どもである後白河天皇が立太子されないまま(天皇に即位する可能性がまったくないまま)天皇へと即位しました。
そしてすぐに鳥羽上皇が崩御したのでした。

この流れが面白くないのは崇徳上皇です。世間的には同じ両親のもとに生まれながら、崇徳上皇は鳥羽上皇に嫌われ、後白河という天皇候補にも無い弟が天皇に即位したのですから。そしてそれは貴族の権力争いも巻き込む武士の代理戦争となったのでした。

崇徳上皇方には
藤原頼長・源為義・源為朝・平忠正ら

後白河天皇方には
藤原忠通・源義朝・平清盛ら

と、源氏では親子兄弟で、平家では叔父甥で分れて戦うことになったのです。
7月10日、源為朝は崇徳上皇に夜襲を献策しますが、藤原頼長はそれを卑怯として認めませんでした。これに対し後白河天皇は夜襲を認めたのです。
こうして11日未明に、平清盛や源義朝らは崇徳上皇の北白川殿を攻めます。
ここで源為朝は大いに弓で活躍したと伝わっています。
やがて、北白川殿の隣りの藤原家成の屋敷に義朝が火をかけて北白川殿の人々が退却して戦いは終わったのです。

戦後、敗走途中で藤原頼長は重傷を負い死去。源為義・為朝は源義朝によって処刑、平忠正も平清盛によって処刑されるのです。これは平安時代初期に蝦夷征伐でアテルイらが処刑されて以来の死刑執行でした。


ちなみに、この戦いには井八郎という人物が参加していて、この人物は井伊家の祖先だとされています。
コメント
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