(正村)
5月に『どんつき瓦版』は肥田城水攻めと銘打ちまして特集を組みました。我々は専門家の方と違い図書館辺りが資料ですので立派な資料はありませんが、他のいろいろな水攻めの記録が全国にありますので、それらの水攻めを調べ肥田城を比べながら出した結果で我々が勝手に推測した場合「あの土塁は六角が造ったのではなく肥田城の外郭ではないか?」と思います。
いろんな理由はあるのですが、先ほどの小字名の地図を見ても彦根市ではない現在の愛荘町の部分などに何があるのか? と思う訳です。それを考えますと野良田村領の中の小字には水を示す物がたくさん含まれていてこの辺りが愛知川の流域であったであろうと解釈をしています。土塁から肥田町に入ると川の字名が無くなります。
そのような事から「この土塁は六角氏が築いた物ではなく、肥田城の高野瀬氏が外郭土塁として築いた物」と推測しました。
また水攻めはお金が掛ります。例えば有名な高松城水攻めでは土塁を築くのに安土城が2個できるくらいの金が必要だともいわれています。これを踏まえて当時の六角氏の経済状況を調べて行くと守護大名の筈が家臣の蒲生からお金を借りて返さない、逆に言えば「金も無いのにこんな土塁を築けるのか?」という疑問もあります。
今回『どんつき瓦版』では勝手な解釈をしていろいろ作ったのですが、我々素人が勝手な解釈をして作ってもあまり覆すことができないくらいに肥田城は謎に包まれたお城であるのです。
中井先生のお話を聞いて「あっ」と思ったのは、なぜ高野瀬氏がこちらに来たのか? も謎です、また稲枝の各地区では地区毎に豪族が居て狭い地区で戦った資料もあるのです。そう考えますと、いろんな事が解り解ると謎が深まるのが肥田城です。
我々が勝手に推測した肥田城水攻めを、専門家の方に入っていただいて早く調査研究をしていただいて「お前らこんな事を勝手にするな!」と怒られる方が良いとも考えています。
今年は肥田城水攻め450年です。来年は野良田合戦450年です。この年は鎌倉室町から続く守護大名を新興勢力である織田信長や浅井長政が衰退させた、新興勢力の勃興という時代になります。それがこの地域になります。
肥田城でシンポジウムをするというのは今まで考えられもしなかった事ですが、稲枝には各町に歴史がありますし彦根でも高宮・鳥居本などにも面白い話があります。しかし彦根には彦根城がある物ですからそこばかりが注目されますが、日本という大きな地域を見た時にこの辺りが当時の中心の舞台になっていたといってもおかしくないのではないかと思います。
今まで彦根市だけで考えていた歴史の話を豊郷町や愛荘町などとの文化財交流をしていって、その中から歴史を発掘し市民に提供していって大いに自分たちの地域を活性化できるようになっていけばいいなぁと思っています。
(中井)
今回様々な見地から意見をいただきました。最後に正村先生から自分たちの想いの水攻めの話をいただきました。もう一度各先生方にそれぞれの想いの水攻めについてお伺いします。
今、土塁は水攻めの土塁ではなく城の外郭(総構え)の城側の土塁ではなかったか? という意見も出ていますが、今一度水攻めについてこれを材料にしてお話を頂けないでしょうか。
(高瀬)
水攻めの資料はあまりありません、載っているのは『近江與地志略』という膳所藩の儒学者が5年間に渡って近江を調査し伝説を集めて書いた資料。そして彦根藩士の源義陳が書いた『淡海小間攫』、これは『近江與地志略』を真似て書いたといわれています。
これらの資料には水攻めは永禄3年4月13日から5月28日まで行われたと書いています。しかし『愛智郡史』ではこれに疑問を持ち永禄2年の説を唱えた資料を掲載しています。ここでは、永禄2年9月19日に堤が切れたとなっています。
また佐々木承禎(六角義賢)が堤防を造った時に目加田城主と現場監督の栗田修理亮・小倉左近の喧嘩騒動があり、大騒動になるところを栗田と小倉が神妙に取り計らったとして、後で平井定武がやってきて義賢褒め状を出しているという記録があります。
こういう資料がありますと、地侍が人足を連れてやって来て土塁を築いたと考えられます。この一ヶ月後に岐阜の斎藤義龍から評価の手紙が来ている事も解っています。
平城といっても肥田城は城ですので攻め難かったと思います、それはやはり水で肥田には万葉の時代から細江があったとも考えられ、水郷があったのではないかとも考えられます。
(谷口)
土塁は弧状を描いています、ですからおそらく受けるという形をとっていますので水を堰き止める意図で造られたのはそうだろうと思いますが、疑問に思いましたのは発掘調査で土塁の内側の土を上げている事です。
ですから敵方の高野瀬が居るのにどういう関係になっていたのから疑問です。土塁の土は現在のJR(旧国鉄)ができる時に、相当使ったとも記録されていますので土塁がどれくらいの高さで水を堰き止めていたのか? もっと高いのではないか? と思います。
もう一つ、私たちは宇曽川などのイメージを現在の川でイメージしますが現在は両岸をしっかりとした堤防で守られています。かつては網の目のように低い所を流れていてその一番太い所が本流になっているというような河川で、そういう意味では人間と河川の戦いは土塁をどんどん高くしていく、そのような戦いであったかと思うのですがまだこの時代は比較的切れ易い構造であったので、水攻めは今の土塁を切るのであれば大変でしょうが当時の切り方は容易な物であったとは想像できます。
(堀)
いろいろお話がありましたが、まずいい訳から言わさせていただきます。
調査に置きましては工区が決まっていてその工区内で発掘調査をします。ですので残念ながら堤の痕跡の外側は調査をしておりません。あくまでもこれ以上と理解していただくといいと思います。
逆に「内側と外側を掘削していれば単純に倍以上ができると解釈できるのではないか」と思います。私はこの発掘には立ち会っていませんが私個人としては気になっていたことでもあります。
正村先生の話に関連すると思いますが、発掘調査は出てきた遺物をもって構造物の年代を決めますが、残念ながらこの際の調査では出てきておりません。ですのでこの堤の痕跡と思われる地割りがいつできたのかを我々の立場から申し上げると「解りません」というのが正直な答えです。
(中井)
今後この周辺で調査が行われる事があるのですか?
(堀)
発掘調査は今回の整備でほぼ終了しましたので、これ以外の調査原因が生じない限りはありません。
(中井)
正村先生、『どんつき瓦版』は今回のシンポについてもきっかけ作りにはなったと思いますので三方の話を受けて反論などがあればどうぞ。
(正村先生)
専門家の先生に言われると弱い立場ですので。
先ほど谷口先生が言われたように、敵に背を向けて土を盛るには如何なものか? というのも疑問に感じました。土塁があった所から屋敷がある場所までは400mくらいなのです。当時は一番遠くまで物を飛ばすのは弓矢なので、弓矢の射程距離を考えた場合の400mが遠いのか近いのかを考えます。また当時は山城が中心だった時に肥田のような平城の役割はどういう物だったのか?
例えば機動部隊が駐屯するなら、高野瀬が地上戦に馴れた騎馬や槍隊をたくさん保有している組織なら、六角氏は大量の兵を投入して戦うのが常識なのに敢えて水攻めまでして抑え込むのはどういう理由があったのかを考えます。
水がたくさんあったという考え方の場合、いわゆる“深田”という考え方の場合、自分のお城の前を1mくらいの水を張る、または柔らかい土を撒いて人が容易にあるけない状態にした場合。
堤の城側には“田”の付く小字がたくさんありますからぬかるみのような場所がたくさんあったのかな? とも考えられますが、いかんせん調査資料が断片的であったりして「こうだ!」という研究がない物ですから、調べれば調べるほど謎が多い城だという事が解りました。
川の水量も考えた時に、土塁がどこまで耐えられるのか?とも考えると土木工学の立場からも考えていかなければいけない。そうなると色んな専門家の方々に調べていただいて色んな情報が出るのが嬉しいと思います。
(中井)
ここで押さえておきたいのは、当時は山城だけが城ではないという事です。当時は平城もたくさん造られているのですが、基本的に戦国期の平城は江戸時代に田畑に耕作されてしまい痕跡を残していないだけなのです。
それに比べると山城は今でも人があまり入らないので、曲輪や土塁が見れるだけなのです。ですから当然平地にも城が造られています。まさに肥田城は肥田の館とか武士が住む屋敷ではなく“城”として認識して充分だと考えます。
おそらく私自身、コーディネーターがこう言っていいのか解りませんが、土塁は水攻めの為の土塁だろうという事です。
それからもう一つ、大変重要なのは戦国時代の城は殆ど戦をしていないのです。当時は敵が攻めてきたら自焼けと言って自分で焼いて逃げるのです、隣村との戦いには堪えうるのですが、六角が攻めてきたら本来は高野瀬は自分で焼いて逃亡するのが常套手段直です。
それを敢えて籠城するのは、これは日本の合戦史上と言いますか、戦国期の城で実際に戦った事を大変評価してよい場所だろうと私は思います。
ここで先ほども少しお話がありましたが水攻めの翌年に野良田合戦があります、野良田合戦も踏まえてこの肥田の地域、あるいは浅井・六角が歴史上どうなっていくのかの話を少しお話し願いますか。
(高瀬)
戦国時代の戦は籠城戦と野戦があります。籠城戦で大切なのは「誰かがあとから助太刀にやってきてくれる」という事です、これを後詰と言います。浅井氏がやってきてくれるに違いないと籠城をやったのではないかと思います。
高宮氏・河瀬氏・赤田氏と同盟を結びますがみんな平城なのです。これらも水で城への攻撃を防いだのではないかと思います。
(谷口)
先ほど申し上げましたように近江の中でとらえると、浅井が勢力を拡張し六角が後手に回る。そういう中で野良田表の戦いがあった。だからそれは単に肥田城との関係だけではなくこの辺りのさまざまな武将、それらを地域で少しずつ歴史が解き明かされていくと、どっちがどういう形で与していったのかが解ると、野良田表の戦いがこの地だけの戦いではなくて更に大きな力関係の中で成り立った戦だという事が解ってくると思います。
ですからそれぞれの郷土の歴史を解き明かしていただくと、もっともっと解ってくるのだろうと思います。
(堀)
私は発掘調査を中心にしか考えられませんが、昨年度調査した土器を見ていると、かなり火を受けた物や焼き膨れた瓦などもあります。おそらく火事などがあった後に区画溝に焼けた物を捨てたような状況が確認されていますので、おそらくは文献に出てこないような自焼もあったのだろうと思います。
残念ながら有名な資料として残っておりませんので、肥田城がどのようにして無くなっていったのかは解らないのですが、野良田合戦も肥田城を構成する歴史事実の一つのパーツとして嵌り込む事によって、新しい面から肥田城が見えてくるのではないかと思った次第です。
(正村)
あの土塁は水攻めで造られた土塁であったと(笑)
来年は野良田表の戦い450年、先ほども言いましたが守護大名の衰退というのがテーマになるのではないかと思います。
浅井長政はまだ16歳で初陣をするのです。野良田表の戦いで勝った事で、今で考えると高校生1年生くらいの若造が守護大名を押し破ったという事になり、それによって近江の勢力図がどんどん浅井になってゆき、織田信長は長政と同盟を結ぶきっかけになったと思います。その娘が2011年の大河ドラマの主人公お江です。
浅井長政の武勇は他にもあるのかもしれませんが、姉川と野良田表しか思いつきません。野良田表の戦いが一番の物だったのかもしれないと考えます。また戦国ブームと言われていますが、その前の時代はあまり日の目の当たらない時代だと思います。そんな中にも地域の歴史がある。
地域の言い伝えなども出てきて、地域の人たちが繋がっていけば嬉しいと思います。
(中井)
今回、地域にある大学と地域が共同でシンポジウムができたという事に意味があります。地元の方はここに肥田城が在って水攻めされた事は聞いた事があるとは思いますが、今日のシンポジウムでそういったものがどんな経過を辿ったのか、あるいはそれが今も田んぼの一枚一枚や地名の一つ一つに見事に刻まれていると再認識していただければ、今回のシンポジウムをやって良かったのだと思いますし、また来年の浅井長政が“賢政”から“長政”に名前を変えるきっかけになっていく野良田合戦450年がこの大学と地域の共同で出来て行けばありがたいと思います。
今、田んぼに過ぎない所に凄いお城があって、それが六角との戦いに戦い抜いた。浅井が来るからと戦い抜けたと知っていただければ幸いに思います。
≪シンポジウム終了後≫
肥田城水攻め450年は、2010年の野良田合戦450年に課題を残す形でシンポジウムを終えました。
『どんつき瓦版』編集部が、シンポジウム前後でパネラーの先生方とさせていただいたお話もまた新たな視点を見せてくれるモノでしたので、簡単にですがその一部をご紹介いたします。
○肥田城について
・肥田町に残る条里制の跡から考えると、やはり高野瀬氏の造った外郭である可能性は低いとの事
・発掘では、肥田城の土塀が焼かれた遺構も出ている。肥田城は水攻め以外にも火攻めにも遭った可能性がある。
○彦根城について
・彦根城の石垣は近江国内の様々なお城から集められた物だとの説が流布しているが、実はそのほとんどは同じ場所から切り出されていて、それは荒神山と同じ成分である。
・しかし、井伊家の記録に荒神山から切り出した項目は無く、この矛盾点が大きな課題となる。
・彦根城の石垣には、刻印があるものが存在するらしい。
余談ですが、彦根城石垣の刻印については内濠沿いの玄宮園の石垣に“六”の刻印がある物を『どんつき瓦版』が確認しています。
今回のシンポジウムには280名近い聴講者がおられ、知られざる地元の史跡と歴史的事件に多くの方が関心を持っておられる事が確認されました。このシンポジウムが稲枝地域の再発見と、周辺地域との連携による歴史発掘のきっかけになるように願いたいと思います。