goo blog サービス終了のお知らせ 

彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『いなえ歴史シンポジウム 水攻めから450年~肥田城の謎を語る~』その2

2009年07月14日 | 講演


(正村)
 5月に『どんつき瓦版』は肥田城水攻めと銘打ちまして特集を組みました。我々は専門家の方と違い図書館辺りが資料ですので立派な資料はありませんが、他のいろいろな水攻めの記録が全国にありますので、それらの水攻めを調べ肥田城を比べながら出した結果で我々が勝手に推測した場合「あの土塁は六角が造ったのではなく肥田城の外郭ではないか?」と思います。
 いろんな理由はあるのですが、先ほどの小字名の地図を見ても彦根市ではない現在の愛荘町の部分などに何があるのか? と思う訳です。それを考えますと野良田村領の中の小字には水を示す物がたくさん含まれていてこの辺りが愛知川の流域であったであろうと解釈をしています。土塁から肥田町に入ると川の字名が無くなります。
 そのような事から「この土塁は六角氏が築いた物ではなく、肥田城の高野瀬氏が外郭土塁として築いた物」と推測しました。

また水攻めはお金が掛ります。例えば有名な高松城水攻めでは土塁を築くのに安土城が2個できるくらいの金が必要だともいわれています。これを踏まえて当時の六角氏の経済状況を調べて行くと守護大名の筈が家臣の蒲生からお金を借りて返さない、逆に言えば「金も無いのにこんな土塁を築けるのか?」という疑問もあります。
今回『どんつき瓦版』では勝手な解釈をしていろいろ作ったのですが、我々素人が勝手な解釈をして作ってもあまり覆すことができないくらいに肥田城は謎に包まれたお城であるのです。
中井先生のお話を聞いて「あっ」と思ったのは、なぜ高野瀬氏がこちらに来たのか? も謎です、また稲枝の各地区では地区毎に豪族が居て狭い地区で戦った資料もあるのです。そう考えますと、いろんな事が解り解ると謎が深まるのが肥田城です。
我々が勝手に推測した肥田城水攻めを、専門家の方に入っていただいて早く調査研究をしていただいて「お前らこんな事を勝手にするな!」と怒られる方が良いとも考えています。
今年は肥田城水攻め450年です。来年は野良田合戦450年です。この年は鎌倉室町から続く守護大名を新興勢力である織田信長や浅井長政が衰退させた、新興勢力の勃興という時代になります。それがこの地域になります。
肥田城でシンポジウムをするというのは今まで考えられもしなかった事ですが、稲枝には各町に歴史がありますし彦根でも高宮・鳥居本などにも面白い話があります。しかし彦根には彦根城がある物ですからそこばかりが注目されますが、日本という大きな地域を見た時にこの辺りが当時の中心の舞台になっていたといってもおかしくないのではないかと思います。
今まで彦根市だけで考えていた歴史の話を豊郷町や愛荘町などとの文化財交流をしていって、その中から歴史を発掘し市民に提供していって大いに自分たちの地域を活性化できるようになっていけばいいなぁと思っています。


(中井)
 今回様々な見地から意見をいただきました。最後に正村先生から自分たちの想いの水攻めの話をいただきました。もう一度各先生方にそれぞれの想いの水攻めについてお伺いします。
 今、土塁は水攻めの土塁ではなく城の外郭(総構え)の城側の土塁ではなかったか? という意見も出ていますが、今一度水攻めについてこれを材料にしてお話を頂けないでしょうか。

(高瀬)
 水攻めの資料はあまりありません、載っているのは『近江與地志略』という膳所藩の儒学者が5年間に渡って近江を調査し伝説を集めて書いた資料。そして彦根藩士の源義陳が書いた『淡海小間攫』、これは『近江與地志略』を真似て書いたといわれています。
 これらの資料には水攻めは永禄3年4月13日から5月28日まで行われたと書いています。しかし『愛智郡史』ではこれに疑問を持ち永禄2年の説を唱えた資料を掲載しています。ここでは、永禄2年9月19日に堤が切れたとなっています。
 また佐々木承禎(六角義賢)が堤防を造った時に目加田城主と現場監督の栗田修理亮・小倉左近の喧嘩騒動があり、大騒動になるところを栗田と小倉が神妙に取り計らったとして、後で平井定武がやってきて義賢褒め状を出しているという記録があります。
 こういう資料がありますと、地侍が人足を連れてやって来て土塁を築いたと考えられます。この一ヶ月後に岐阜の斎藤義龍から評価の手紙が来ている事も解っています。
 
 平城といっても肥田城は城ですので攻め難かったと思います、それはやはり水で肥田には万葉の時代から細江があったとも考えられ、水郷があったのではないかとも考えられます。

(谷口)
 土塁は弧状を描いています、ですからおそらく受けるという形をとっていますので水を堰き止める意図で造られたのはそうだろうと思いますが、疑問に思いましたのは発掘調査で土塁の内側の土を上げている事です。
 ですから敵方の高野瀬が居るのにどういう関係になっていたのから疑問です。土塁の土は現在のJR(旧国鉄)ができる時に、相当使ったとも記録されていますので土塁がどれくらいの高さで水を堰き止めていたのか? もっと高いのではないか? と思います。
 もう一つ、私たちは宇曽川などのイメージを現在の川でイメージしますが現在は両岸をしっかりとした堤防で守られています。かつては網の目のように低い所を流れていてその一番太い所が本流になっているというような河川で、そういう意味では人間と河川の戦いは土塁をどんどん高くしていく、そのような戦いであったかと思うのですがまだこの時代は比較的切れ易い構造であったので、水攻めは今の土塁を切るのであれば大変でしょうが当時の切り方は容易な物であったとは想像できます。

(堀)
 いろいろお話がありましたが、まずいい訳から言わさせていただきます。
 調査に置きましては工区が決まっていてその工区内で発掘調査をします。ですので残念ながら堤の痕跡の外側は調査をしておりません。あくまでもこれ以上と理解していただくといいと思います。
 逆に「内側と外側を掘削していれば単純に倍以上ができると解釈できるのではないか」と思います。私はこの発掘には立ち会っていませんが私個人としては気になっていたことでもあります。
 正村先生の話に関連すると思いますが、発掘調査は出てきた遺物をもって構造物の年代を決めますが、残念ながらこの際の調査では出てきておりません。ですのでこの堤の痕跡と思われる地割りがいつできたのかを我々の立場から申し上げると「解りません」というのが正直な答えです。

(中井)
 今後この周辺で調査が行われる事があるのですか?

(堀)
 発掘調査は今回の整備でほぼ終了しましたので、これ以外の調査原因が生じない限りはありません。

(中井)
 正村先生、『どんつき瓦版』は今回のシンポについてもきっかけ作りにはなったと思いますので三方の話を受けて反論などがあればどうぞ。

(正村先生)
 専門家の先生に言われると弱い立場ですので。
 先ほど谷口先生が言われたように、敵に背を向けて土を盛るには如何なものか? というのも疑問に感じました。土塁があった所から屋敷がある場所までは400mくらいなのです。当時は一番遠くまで物を飛ばすのは弓矢なので、弓矢の射程距離を考えた場合の400mが遠いのか近いのかを考えます。また当時は山城が中心だった時に肥田のような平城の役割はどういう物だったのか?
 例えば機動部隊が駐屯するなら、高野瀬が地上戦に馴れた騎馬や槍隊をたくさん保有している組織なら、六角氏は大量の兵を投入して戦うのが常識なのに敢えて水攻めまでして抑え込むのはどういう理由があったのかを考えます。
 水がたくさんあったという考え方の場合、いわゆる“深田”という考え方の場合、自分のお城の前を1mくらいの水を張る、または柔らかい土を撒いて人が容易にあるけない状態にした場合。
 堤の城側には“田”の付く小字がたくさんありますからぬかるみのような場所がたくさんあったのかな? とも考えられますが、いかんせん調査資料が断片的であったりして「こうだ!」という研究がない物ですから、調べれば調べるほど謎が多い城だという事が解りました。
 川の水量も考えた時に、土塁がどこまで耐えられるのか?とも考えると土木工学の立場からも考えていかなければいけない。そうなると色んな専門家の方々に調べていただいて色んな情報が出るのが嬉しいと思います。

(中井)
 ここで押さえておきたいのは、当時は山城だけが城ではないという事です。当時は平城もたくさん造られているのですが、基本的に戦国期の平城は江戸時代に田畑に耕作されてしまい痕跡を残していないだけなのです。
 それに比べると山城は今でも人があまり入らないので、曲輪や土塁が見れるだけなのです。ですから当然平地にも城が造られています。まさに肥田城は肥田の館とか武士が住む屋敷ではなく“城”として認識して充分だと考えます。
 おそらく私自身、コーディネーターがこう言っていいのか解りませんが、土塁は水攻めの為の土塁だろうという事です。
 それからもう一つ、大変重要なのは戦国時代の城は殆ど戦をしていないのです。当時は敵が攻めてきたら自焼けと言って自分で焼いて逃げるのです、隣村との戦いには堪えうるのですが、六角が攻めてきたら本来は高野瀬は自分で焼いて逃亡するのが常套手段直です。
 それを敢えて籠城するのは、これは日本の合戦史上と言いますか、戦国期の城で実際に戦った事を大変評価してよい場所だろうと私は思います。

 ここで先ほども少しお話がありましたが水攻めの翌年に野良田合戦があります、野良田合戦も踏まえてこの肥田の地域、あるいは浅井・六角が歴史上どうなっていくのかの話を少しお話し願いますか。

(高瀬)
 戦国時代の戦は籠城戦と野戦があります。籠城戦で大切なのは「誰かがあとから助太刀にやってきてくれる」という事です、これを後詰と言います。浅井氏がやってきてくれるに違いないと籠城をやったのではないかと思います。
 高宮氏・河瀬氏・赤田氏と同盟を結びますがみんな平城なのです。これらも水で城への攻撃を防いだのではないかと思います。

(谷口)
 先ほど申し上げましたように近江の中でとらえると、浅井が勢力を拡張し六角が後手に回る。そういう中で野良田表の戦いがあった。だからそれは単に肥田城との関係だけではなくこの辺りのさまざまな武将、それらを地域で少しずつ歴史が解き明かされていくと、どっちがどういう形で与していったのかが解ると、野良田表の戦いがこの地だけの戦いではなくて更に大きな力関係の中で成り立った戦だという事が解ってくると思います。
 ですからそれぞれの郷土の歴史を解き明かしていただくと、もっともっと解ってくるのだろうと思います。

(堀)
 私は発掘調査を中心にしか考えられませんが、昨年度調査した土器を見ていると、かなり火を受けた物や焼き膨れた瓦などもあります。おそらく火事などがあった後に区画溝に焼けた物を捨てたような状況が確認されていますので、おそらくは文献に出てこないような自焼もあったのだろうと思います。
 残念ながら有名な資料として残っておりませんので、肥田城がどのようにして無くなっていったのかは解らないのですが、野良田合戦も肥田城を構成する歴史事実の一つのパーツとして嵌り込む事によって、新しい面から肥田城が見えてくるのではないかと思った次第です。

(正村)
 あの土塁は水攻めで造られた土塁であったと(笑)
 来年は野良田表の戦い450年、先ほども言いましたが守護大名の衰退というのがテーマになるのではないかと思います。
浅井長政はまだ16歳で初陣をするのです。野良田表の戦いで勝った事で、今で考えると高校生1年生くらいの若造が守護大名を押し破ったという事になり、それによって近江の勢力図がどんどん浅井になってゆき、織田信長は長政と同盟を結ぶきっかけになったと思います。その娘が2011年の大河ドラマの主人公お江です。
浅井長政の武勇は他にもあるのかもしれませんが、姉川と野良田表しか思いつきません。野良田表の戦いが一番の物だったのかもしれないと考えます。また戦国ブームと言われていますが、その前の時代はあまり日の目の当たらない時代だと思います。そんな中にも地域の歴史がある。
 地域の言い伝えなども出てきて、地域の人たちが繋がっていけば嬉しいと思います。

(中井)
 今回、地域にある大学と地域が共同でシンポジウムができたという事に意味があります。地元の方はここに肥田城が在って水攻めされた事は聞いた事があるとは思いますが、今日のシンポジウムでそういったものがどんな経過を辿ったのか、あるいはそれが今も田んぼの一枚一枚や地名の一つ一つに見事に刻まれていると再認識していただければ、今回のシンポジウムをやって良かったのだと思いますし、また来年の浅井長政が“賢政”から“長政”に名前を変えるきっかけになっていく野良田合戦450年がこの大学と地域の共同で出来て行けばありがたいと思います。
 今、田んぼに過ぎない所に凄いお城があって、それが六角との戦いに戦い抜いた。浅井が来るからと戦い抜けたと知っていただければ幸いに思います。



≪シンポジウム終了後≫
肥田城水攻め450年は、2010年の野良田合戦450年に課題を残す形でシンポジウムを終えました。
『どんつき瓦版』編集部が、シンポジウム前後でパネラーの先生方とさせていただいたお話もまた新たな視点を見せてくれるモノでしたので、簡単にですがその一部をご紹介いたします。

○肥田城について
・肥田町に残る条里制の跡から考えると、やはり高野瀬氏の造った外郭である可能性は低いとの事
・発掘では、肥田城の土塀が焼かれた遺構も出ている。肥田城は水攻め以外にも火攻めにも遭った可能性がある。
○彦根城について
・彦根城の石垣は近江国内の様々なお城から集められた物だとの説が流布しているが、実はそのほとんどは同じ場所から切り出されていて、それは荒神山と同じ成分である。
・しかし、井伊家の記録に荒神山から切り出した項目は無く、この矛盾点が大きな課題となる。
・彦根城の石垣には、刻印があるものが存在するらしい。

余談ですが、彦根城石垣の刻印については内濠沿いの玄宮園の石垣に“六”の刻印がある物を『どんつき瓦版』が確認しています。

今回のシンポジウムには280名近い聴講者がおられ、知られざる地元の史跡と歴史的事件に多くの方が関心を持っておられる事が確認されました。このシンポジウムが稲枝地域の再発見と、周辺地域との連携による歴史発掘のきっかけになるように願いたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『いなえ歴史シンポジウム 水攻めから450年~肥田城の謎を語る~』その1

2009年07月14日 | 講演
7月4日のシンポジウムの内容掲載がやっとまとまりましたのでアップいたします。

遅くなり申し訳ありません。



『いなえ歴史シンポジウム 水攻めから450年~肥田城の謎を語る~』

【基調報告】
NPO法人 城郭遺産による街づくり協議会 理事長
聖泉大学非常勤講師:中井 均さん

 皆さんこんにちは。この後に様々な先生方から肥田城につきまして見解を述べていただきますが、私は基調報告という事で肥田城だけに関わらず、彦根にはこんなお城がある。という少し城の見方を変えるお話をさせていただきます。 
 彦根というと国宝彦根城がありますので、彦根城が当たり前のようになりますが、もちろん佐和山城がありますし、彦根市内だけで現在67ヶ所の城跡が確認されています。これは1981年から滋賀県教育委員会が「どこにどんな城があるのか?」と調査した結果、67ヶ所に分布している事が解った訳です。
 私自身は山城を専門としておりますが、彦根で言いますと“佐和山城”“日夏城”“高取山城”“物生山城”などです。こういった山城は戦国期に造られた物ですが、現在でも堀切・曲輪といった遺構を残しています。そんな遺構を読み込む事によって「どういう人たちが」「どんな時代に」「どうして造ったのか」を研究していく訳です。
 ですから今回私に与えられたタイトルは大変難しいのです。肥田城は平城であり、江戸時代に彦根藩が肥田城址の開墾を許可しましたので、現在のような田畑になってしまったのです。つまり遺構が残っていないのです。
 遺構が残っていないとなりますと、私自身は手も足も出ないのです。ですから「肥田城はこういう城であった」というお話は後の先生にお任せをして、私は平城に関して少しお話をしたいと思います。

 彦根には肥田城以外に“甘露城”“甲崎城”などが平地に造られています。これらはすべて江戸時代に田畑に変わってしまい濠などの遺構を残していません。しかしこのようなお城は“国人”や“地侍”といった村の領主たちが城主でしたので、江戸時代になっても村人たちが領主のお城を大事にしてきた訳なのです。
 そこで「小字」という地名にお城の痕跡を残していく訳です。例えば甘露城には正に“城”という小字が残っておりますし“城南(しろみなみ)”“城西(しろにし)”という地名も残っています。また甲崎城につきましては、私も大変驚いたのですが現在の甲崎の集落は“城屋敷”にあるのですがそこから少し琵琶湖の方に行った所に土塁と濠の痕跡を残して“土居(どい)”という地名を残しています。甲崎城があった所その物は現在畑に変わってはいるのですが真四角の方形の形をしたお城の痕跡をそのまま残している訳です。
 ですから地名と田んぼに残された畦畔といいかすか畦一本一本が大変大事な遺構であった。平地だから土塁・曲輪あるいは濠が残って居ないのではなくて地名や田んぼの一筆一筆に歴史が残されていたという事ですね。甲崎城ではそのような痕跡が残されているのです。
 肥田城につきましても様々な小字が残されています。こういった小字から肥田城の広がりあるいは城下の状況が解ってくるのだと思います。

 ただ肥田城につきまして興味深いのは高野瀬氏という城主の問題です。高野瀬氏は既に14世紀の南北朝時代の資料の中に登場して参ります。しかし“高野瀬”は彦根ではなく豊郷町にこの地名があります。当時の在地の武士は村の名前を苗字にします。“高野瀬”というのはその本貫地が肥田ではなく豊郷の高野瀬なのです。
 これがなぜ肥田の城主になるのか? 大変面白い問題を持っているだろうと思います。当時の地侍・国人・土豪は村の領主ですから、村を離れるのはあり得ないのです、例えば甲斐の武田氏は信濃・上野あるいは遠江に出て行っても必ず甲斐の躑躅ヶ崎に戻るのです。
 要するに父祖伝来の土地は彼らにとっては“聖地”なのです。いくら領土を広げようがそこから出て行くというのは信長以前にはあり得ないのです。
信長は、清州から小牧山に移り岐阜・安土さらにどこかに移る予定であったと考えて良い訳ですが、それ以外の守護大名や戦国大名、あるいは国人・地侍というのは村を離れるのはあり得ないのです。
 それが敢えて高野瀬を離れてなぜ肥田の地にやって来たのか? というのが肥田城を考える上で大変重要な問題ではないかと私は思います。
 同じ近江で少し似た事例がありますのでご紹介しますと、高月町に磯野という所があります。磯野には磯野氏という浅井氏の被官である土豪が居ます。この磯野氏が佐和山城主として信長と戦います。
 もう一つは米原の朝妻城の城主が新庄氏という国人です。新庄氏は元々朝妻に居るのではなく旧近江町に新庄という所があり、そこからわざわざ朝妻に移っています。
 こういった国人の移動は彼らの意志ではなくもっと上の方から守備を命じられて来たのではないか? つまり肥田の場合は「おそらく六角氏によって高野瀬氏が肥田城の守備を任されて本貫地から移って来て肥田を国境線として城主になった」と考えてもいいのではないかと私は思っています。
 ところが高野瀬氏が浅井方に付く事によって、六角氏の想いは打ち破られた訳です。高野瀬氏が浅井氏に帰順する事によって有名な水攻めが永禄2年に行われる訳です。

 面白いのは土手を造られて村人がお城に逃げ込んだという話です。これは大変重要な意味を持っています。戦国時代の領主は「領民を守る」というのは重要な責務だったのです。
 近世のお城、例えば彦根城は、井伊家とその家臣たちしか入れません。町人がお城に入るなんてあり得ないのですが、戦国時代のお城は避難場所になる訳です。
様々な戦いの時にお城を開放する事によって、領民が非難する場所になるという事です。肥田城を守る為に領民を締め出すのではなく、高野瀬氏はお城の中にそれを避難させる。これが当時の責務であったのです。

 もう一つ“その後の肥田城”が大変重要な意味を持っています。
 織田信長が近江に入ると、高野瀬氏は信長の家臣の柴田勝家の与力になりますが、天正2年(1574)に高野瀬秀隆が越前で自害します。その後、天正5年くらいといわれていますが信長の家臣の蜂屋頼隆が肥田城主になります。蜂屋の死後は豊臣秀吉の家臣の長谷川秀一が天正17年頃に肥田城主になります。
 蜂屋氏や長谷川氏の時代に日本の城はどうなったかと言うと、天正4年に近江では安土城が築かれ、それまでの土造りの城から石垣造りの城に日本の城が大きく変化する時です。
 私はこれを“織豊系城郭”と呼んでいます。戦国時代の城は土造り城郭だった物が、安土以降は石垣・瓦・天守を持つ城が日本の中に出現します。
蜂屋・長谷川のような信長・秀吉の直属の家臣の城は本来こうした城にならなければおかしいのですが、どうも肥田城では石垣・天守あるいは瓦を使っていないという大変難しい難問を持っているのです。
 蜂屋氏が入った段階ではおそらく大変荒廃していただろうと思われる肥田城を修理した時に、石垣や天守を造れる時代であったのに、なぜこうならなかったのか? というのが重要な問題だろうと考えています。
長谷川秀一が文禄元年(1592)に秀吉の朝鮮出兵に伴って朝鮮半島で陣没し、肥田城は廃城となり、江戸時代になって彦根藩が開墾を許可して水田に変わってしまったのです。
ただ城跡と伝えられている場所の南西側にある“登町”、南東側にある“東町”“西町”は短冊型街区つまり道に対して短冊のように町屋が形成されています。これは城下町特有の町割りで農村型の地割りを持っていないのが肥田の大きな特徴です。
 これらの町割りは肥田城下町の痕跡を残していると言って間違いないですが、問題はこの城下町が高野瀬氏の時代まで遡るのか、あるいは蜂屋・長谷川の時の織豊系城郭として姿を変えた段階の城下町なのかが大きな問題になると思います。
 いずれにしろお城は、その時代だけではなく非常に長い時代。佐和山城でもそうですし彦根城でも江戸時代260年存続しています。肥田城も大変長い時代存続している訳ですのでそういった事を少しずつ解き明かす事によって、彦根には“彦根城”“佐和山城”そして“肥田城”という平城があるという事を皆さんも思っていただけるのではないかと考えます。

 最後に、私は肥田城の水攻めというのは浅井が六角からの独立、今の宮崎県や大阪府の知事が言っているような「戦国時代の地方分権」、守護大名から戦国大名が独立する大きなきっかけになった戦いだと考えています。
 それから山城に比べて遺構が残らないのが平城のネックになるのですが、土手の一本や田んぼの畦畔一本に歴史が残されている。そしてそれを郷土の誇りとしていただいて「肥田にはこんな凄い歴史があったのだ」「守護と戦ってきた不屈の精神があったのだ」と思っていただければ大変ありがたいと思います。


【パネルディスカッション】
○コーディネーター:中井 均さん
○パネラー
・崇徳寺住職:高瀬 俊英さん
・彦根市教育委員会文化財課:谷口 徹さん
・滋賀県文化財保護協会:堀 真人さん
・どんつき瓦版編集部:正村 圭史郎さん

(中井)
 まず先生方に肥田の水攻めについての想い、あるいは調査の成果についてお話し願いたいと思います。

(高瀬)
 崇徳寺は肥田城の菩提寺という事になっていますので、肥田城主や肥田城にまつわる外観を最初にお話させていただきます。
 崇徳寺には彦根市の指定文化財にしていただいた物が二つあります。ひとつは木造の寺の御本尊で1mくらいの菩薩坐像です。鎌倉時代中期頃に作られた物だと伝わっていますが、非常に繊細な彫刻が施されていて優美な顔立ちでもあります。
 もう一つが、肥田城主の4幅の肖像画像です。“伝高野瀬隆重”“高野瀬秀隆”この秀隆の時に水攻めが行われたと言われています。続いて高野瀬氏が滅亡した後に入った“蜂屋頼隆”“長谷川秀一”です、共に桃山期に描かれたと云われていますが、賛はそれから100年ほど後に寺の住職が書いたようです。
 高野瀬隆重に関しては“伝”と言いましたが、4~500年前の物で亀裂も激しく肝心の字が読めたい所もあって本人かどうかがもう一つはっきりしないのです。
 
 その他に過去帳もありこれらの人々が書かれているのですが、過去帳も江戸時代中期くらいに書かれた物だとの事で、昭和の初めに『愛智郡史』が作られた時には資料とてはっきりしないという事でこの記録からは外されました。ところが、近年になって徹底的な
分析があり、鎌倉前期から書かれている記録が「ある程度信用に値する」との評価を得ました。
 例えば亡くなった理由なども歴史的事実と合致しています。後で作った記録ならば、普通は時代を遡れば遡るほど粗雑になる物ですが、「新しい時代と変わらないくらいに正確に書かれている」との評価をいただきました。また「旧記から転記した」との事も書かれていて異説も紹介されているのです。
 この過去帳に書かれている高野瀬隆重は、鎌倉前期の人という事になっていて鎌倉幕府に仕えていて、この辺りは延暦寺の荘園となっていたのでその荘官(代官)として宇曽川流域に自分の勢力を増やしていったと考えられます。
 隆重の孫の隆益という人物は、承久の乱に18歳で参加して瀬田川で亡くなっていると書かれています。その亡くなった日と歴史的事実とが合っているのだそうです。

 この過去帳と、それを元にした家系図を参考にして調べて行きますと、高野瀬盛隆という人物は「肥田城に居って」と書かれています、盛隆が亡くなったのは1492年とされているので15世紀の終わりには肥田城に居たと思われます。もう少し後の光頼(過去帳には記されていない人物)は、岡山に将軍がやって来た時に将軍に拝謁し従五位修理大夫の位を貰っているのです。その光頼は「肥田城を大いに広め(増築した)」と記されているのです。
 光頼は過去帳に記されていませんが1545年に奥さんが亡くなった記録は過去帳にありますので15世紀終わりから16世紀初めにかけて肥田城は造られたのではないか? と考えられます。
 室町時代は守護勢力が力を持って荘園から年貢を取って、それを地方に居る武士に配って地方の武士を手なづけていた時代でした。ですから高野瀬氏などは守護の元に組み込まれたのです。先程の話にも出て参りましたが“国人”は室町時代に守護の元に組織されていたようです。
 肥田城を残る小字名で見て行きますと、今回このシンポジウムを行っている聖泉大学は“フケ”“菅江”にあります。“下倉”“上倉”“月合”“廿八”からずっと下がると県道になります。
そして“下新田”“上新田”という辺りに肥田城がありました。これは慶安3年に彦根藩の命令で肥田城が取り壊される事となり、「農閑期に人足を隣村から挑発して堤を壊ち、濠を埋め、土石を運び新田3町5反9畝19歩を得たり」と書かれています。どことは書かれていませんが新田にしたと書かれていますし、今回の発掘調査でもどうやらこの辺りが大体4町程の所領だったと考えられます。
そして周囲には“丹波屋敷”“藤蔵屋敷”“民部屋敷”“孫右衛門”“勘ヶ由屋敷”という武家屋敷がありました。それから“登町”という6mの道が300mに渡ってありますし“西町”“東町”という6~7m幅の道路があります。しかもその道路の出入り口は半分くらいに細くなっていて中だけが広いのです。それを取り囲むように町屋がずっとある城下町が作られたのです。
肥田は昔から水には弱い町だったので環濠が作られたといわれています。これらが肥田城の概要という事になりそうです。

(中井)
 肥田城の規模や高野瀬氏の概歴をご紹介いただきました。続きまして谷口先生のお話です。

(谷口)
 私は近江の話と少し絞って彦根の話をさせていただこうと思います。
応仁の乱以降は戦国時代を迎えますが、近江は北の京極と南の六角という元々は近江佐々木源氏の一族だった二家が徐々に仲が悪くなって互いに相争うという時代になりました。これがまさに近江の戦国時代です。
 そうしますと彦根は両者がぶつかる所となる訳で、境目になるのです。中井先生は67ヶ所彦根に城があると仰いましたが、これは殆ど集落の数と同じで、一つの集落に一つの城があるというイメージで思って下さればいいと思うのです。そんな小さな土豪や土着の侍たちが、どちらの勢力に付くのか? という大変な問題なのです。
北か南か? これは本人だけではなくその一族の運命を左右する事になるのです。ですから非常に悩んだと思われるのですが、例えば佐和山の百々氏、聖泉大の近隣では日夏氏・山崎氏・河瀬氏、他にも沼波氏・多賀氏などの戦国の土豪の中でも少し力を持った一族も居て、彼らも「どちらに付くのか?」という事で非常に悩みます。

六角義賢が肥田城を攻めた。いわゆる水攻めの時期は永禄2年(1559)になりますが、同じ年に浅井長政が家臣の百々氏を佐和山城の城代に任命します。
同じような事で、お城ごとの年表を作って重ねるといろいろ解ってくるのですがなかなかそういう資料は出来ていません。幸い出来ている高宮氏の永禄2年の記述を見ると、六角義賢が高宮城を攻撃していて、高宮氏も浅井に付いていたと解るのです。翌年同じように六角氏が高宮城を攻めていますが攻め落とせなかったという記録が出てきます。まさに肥田城と同じ形なのです。
浅井が力を持って領地を広げて南下してくる時期が、肥田城水攻めの時期になるのだろうと思います。ですからそれは肥田だけではなく高宮も同じですし、おそらく近隣の土豪たちも北へ付いていった時期で、浅井が力を持って南下して行く。相対的に六角は弱体化していく時期に当たるのではないかと思います。
近江の年表では永禄10年(1567)に織田信長の名前を見るようになります。近江は北と南に分かれて争った時期がずっと続いたのですが、信長によってこの関係が崩れ有名なお市の方を長政にあてがって同盟を結び、信長はまず六角を滅ぼします。そしてそのまま順調にいくように思われた関係を浅井が離反をする事になるのです。
肥田城水攻めがあったのはその前の時代。つまり近江が南北に分かれて相争う時代で、彦根はその中で「どっちに付こうか」と土豪が悩んだ時代のお話なのです。

(中井)
 時間軸をよくご理解していただけたと思います。続きまして堀先生から発掘調査の成果をご紹介していただきたいと思います。

(堀)
 私からは発掘調査を中心とした肥田城の成果についてまとめさせていただいて、これからの議論の叩き台にしていただけるような基礎的な資料を提示したいと思います。
 今回は、周辺の状況と調査歴そしてその成果について簡単にまとめさせていただき、その成果を踏まえて肥田城を中心に解ってきた事を最後に提示したいと思います。

 周辺の状況と調査歴ですが、肥田城は肥田町にある“肥田城遺跡”という名前でお城の遺跡であると周知されています。
 調査歴は、過去に4ヵ年に渡って調査されました。最も古い物は昭和61年に宇曽川の改修に伴う調査で肥田町内の最も川縁の部分を調査しました。その後平成18年から3ヵ年に渡って補助整備に伴う発掘調査を肥田町の外周で行いました。

 昭和61年の調査では、江戸時代の船運(運送)に関わった屋敷地だろう? と思われる物が見つかっています。
肥田城に関わる事例としては、国道の土塁の一部を断ち割る事がありまして、そこから17世紀から18世紀の信楽焼の擂鉢が土塁の基底部から出ています。
 その事から「土塁は江戸時代に入ってから作られた物ではないか」との判断に至っています。また江戸時代の屋敷の造成部の中から15世紀から16世紀の遺物がまとまって出ているという事は注目すべきことだと思います。

平成18年度の成果としましては、字名で墓立と付いている部分を中心に現在の在所の南側を調査しました。こちらの方では古代の奈良時代から平安時代を中心にした集落が展開していた事が解っています。掘立柱建物の跡が見つかっています。
 肥田城に関わる物としては、この調査区の在所を挟んだ反対側にある推定水攻め際の堤付近の試掘調査を行っています。その際に堤を築いたと思われる土採りの溝が確認されています。この件は後に回します。

 平成19年度は聖泉大学の南に当たる一帯の幅2m×4mほどの小さな範囲の掘削調査を行いました。成果につきましては古墳時代後期の古墳が見つかり周溝から埴輪や鳥型・笠型の木製品が見つかっています。
 肥田城関係につきましては、16世紀代の遺物が出土していますが調査面積の制約もあって明確な遺構は見つかっていませんでした。

 平成20年度の調査では字名で推定されていたお城の地域を調査する事になったのですが、この調査で肥田城の一端が解ってきたのではないか? と言えます。
 字名でいう“山王”と“丹波屋敷”を掘りました。字境に3mくらいの幅の溝がありました。成果としては、字境の溝から仏具などの宗教道具が出土しております。掛け仏の本尊の部分が出土しました。それから10cmと15cm程度の卒塔婆が出土し墨痕がありましたので調査しましたら、普通の卒塔婆に書かれる定型句が書かれていた事が解りました。同じ溝から食べ物を盛る大きさ10cm程度の銅製の器や銅銭、五輪塔の空風輪の部分が出ています、この大きさが35cmで全体の大きさを推定すると1m80cmから2mくらいになると思われ、かなり大きく上級クラスの人のお墓に使う物と推定されます。
 また区画溝や各種施設が見つかっていますが、溝では木・石・杭を使って護岸している物や掘立柱を受ける石なども見つかっています。
 他にも一般生活で見られる漆器碗・信楽の擂鉢・石臼・櫛、面白いところではシジミ・カラス貝などの海産系の食べカスなどや鹿の下顎の骨も出ています。

 先ほど少し触れました堤の規模についてですが、『近江與地志略』という江戸時代に書かれた本によりますと、だいたい全長5.8km幅23mという記載が見られますが、明治時代の地籍図で確認できるのは総延長が半分くらいで幅18mにすぎません。実際に調査してみると幅18m位が現在残っている状況です。ただし試掘調査を行い城側で土採りをしたと思われる溝が出ていてそこから推測される量を考えると幅8m高さ1m弱くらいではないか? と調査担当者は話しております。

 最後に調査成果を纏めますと。
 中井先生も仰いましたが、ポイントになるのは小字名ではないかと思われます。調査地の“山王”という地名からの出土遺物を検討しますとやはり寺院、持仏堂や神社や祠のような物があったと想定できると考えられます。それを考えると“丹波屋敷”“藤蔵屋敷”などもあながち外れた地名ではないのではないか? と想定できます。
 それから“登町”“東町”“西町”は昭和61年の調査を踏まえると。江戸時代以降に造られた部分ではないか? と想定する次第です。

(中井)
 発掘調査によって実態が徐々に解ってきたという状況だろうと思います。それでは正村先生に水攻めの思いを語っていただきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする