彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

比企一族の墓(妙本寺) 訪問

2022年08月13日 | 史跡
比企谷と呼ばれいる、比企能員屋敷跡に建立された妙本寺





ここに比企能員一族の墓があります。



源頼朝の乳母に比企尼という人物がいて、比企尼は頼朝が蛭ヶ小島に流されたあとには自らが20年に渡って援助し、長女・丹後内侍の夫である安達盛長を頼朝に従わせるなどの貢献をしました。
(丹後内侍の前夫との子が島津忠久とも言われています。また盛長との間の娘が源範頼に嫁いでいます)

この功績から、比企尼の甥を比企尼の養子にして比企氏を頼朝の重臣とします。これが比企能員です。
能員自身も頼朝に従って活躍し、頼朝の嫡男頼家の乳母夫にも選ばれたのです。
やがて、能員の娘・若狭局が頼家の側室となり長男・一幡が誕生します。

頼朝の死後、頼家補佐のための十三人の合議制が形成されますが内情は、比企能員と北条時政の権力争いだったのです。

この時点で、北条時政は頼朝の正室の父に過ぎず、比企尼をバックに控えた比企能員の方が実力者であったと考えられます。

やがて頼家が病に倒れ、その隙をついて時政が能員を暗殺しました。
『吾妻鏡』では、仏事の相談に時政の屋敷に呼ばれた能員は、平服で時政邸に入り、武装した天野遠景と仁田忠常に殺害されたとされています。
この話がどこまで本当かはわかりませんが、史実に近いならば、能員にとっては時政は自分より遥か下の存在だったと見ていたのではないでしょうか?

こうして、主を失った比企一族は北条軍に攻められ、一幡の住む小御所に籠って戦いましたが小御所に火を放って自害したのです。この時に若狭局と一幡(数え6歳)もその場で焼死したと言われています、建仁3年(1203)9月2日のことでした。
遺体は発見されず、焼け跡に残った小袖の切れ端を乳母が確認したために、墓代わりの供養塔として後に妙本寺に袖塚が作られました。




しかし『愚管抄』では若狭局と一幡は小御所から逃げていて北条義時に捕まり11月3日に刺し殺されたとも記されています。


妙本寺の御朱印






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