彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大黒屋光太夫関連史跡

2020年10月19日 | 史跡
今回の史跡巡りの最初の訪問地だった鈴鹿市考古資料館に置いていたチラシに、大黒屋光太夫記念館で『風雲児たち』の展示をしている事を知りました。
しかも、前日に始まったばかり。



『風雲児たち』は既に40年間連載されているマンガで僕も25年近く読者を続けていて、連載誌を毎月購入しています。最近原作者のみなもと太郎さんが体調を崩されていて現時点で3か月休載中で心配になっているところでもあったので、展示が気になりました。

彼女に「時間があったら行きたい」と言ってOKを貰いましたが、あまり興味はなさそうでした。

子安観音寺から少し移動すれば、大黒屋光太夫記念館に到着するのですが、閉館5分前になんとか到着。
急いで入館。

大黒屋光太夫は、江戸後期伊勢の船頭を務めていた人物でしたが、伊勢から江戸に荷物を運ぶ時に嵐に巻き込まれて17人が乗った船が遭難してしまう事になります。
船は北海道より北、ロシア領の島に漂流し、やがて船を作ってカムチャッカに移動、そこから日本に帰国するため、ロシア政府に談判するためオホーツク、ヤクーツク、イルクーツクとロシア領の中央部にまで移動を重ね、やがて女帝エカテリーナとの面会を果たして帰国の許可を得るのですが、その時日本に迎えた者は光太夫と磯吉、小市の3名。
新蔵と庄蔵の2名はイルクーツクに残り日本語学校の教師になります。そして残りの人々は亡くなったのでした。
10年の努力の果てに根室まできた光太夫たちでしたが、日露交渉が難航して留め置かれている間に小市は死去。
結局、光太夫と磯吉のみが江戸幕府に引き渡されたのでした。

この流れを軸に『風雲児たち』のマンガを使いながら説明と関連資料の展示がされていました。



大黒屋光太夫にあまり興味がなかった彼女でしたが、僕の説明が熱かったからか興味が沸いてきたようでした。
例えば、光太夫がロシアで日本で有名な大学者と聞いていた中川淳庵と桂川甫周のうち、幕府内で閑職に追われていた甫周が、老中らが光太夫を尋問する席の端で立ち会っていて、ロシア人が知るたった二人の名前を自ら聞いたこと。
ロシアに残った庄蔵が、林子平の『三国通覧図説』を日本語からロシア語に翻訳しそれが欧州に回って異国語に訳された本のまま日本に入り、その本が小笠原諸島の日本所有を公式に認められたこと。
など、『風雲児たち』で描いていた世界は面白く壮大だったのです。

記念館を出て、マスクをしている光太夫像に見送られながら、周辺の関連史跡を周りました。


3つも作られている、開国曙碑の一つを見たり



光太夫の生家亀屋の墓と、光太夫たちが遭難して2年目(まだ生存中)に建立された供養碑




最近建立された小市の供養碑



そして、光太夫たちが漂流前に出港した白子港には、光太夫を主人公にした井上靖の『おろしあ国醉夢譚』の記念碑があります。



白子港は、徳川家康が神君伊賀越えの後、岡崎に向かう為に船に乗った地ともされているので、この日の史跡巡りを締め括る良い場所にもなりました。

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