彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

神君伊賀越えの道(加太越)

2020年10月07日 | 史跡

GWに一度通過したのですが、またこの車両を利用しました(今回はGWと秋の2回通過したときの写真を混ぜて使います)
JR草津線で柘植まで出て関西本線を四日市に向かう滋賀県と三重県の県境の道を加太越えと言います。

本能寺の変の後、徳川家康が堺から岡崎まで逃れた「神君伊賀越え」で一番の難所と言われた場所ですが、今は関西本線に乗れば柘植駅~加太駅まで何の苦労もなく疑似体験ができてしまいます。

そんな加太越えをJRに乗りながら辿りました…
単に電車に乗って外の写真を撮影しただけです(笑)

鉄道マニアの知人の話では、蒸気機関車の時代は後ろに補助機関車を転結しないと越えられない難所だったそうですので、交通の難所であったことは間違いないようです。

柘植駅から見ると、まさしく山越えの様子です。

車窓からは美しい自然の風景ですが、ここを越えてゆくことになる家康一行は大変だったでしょう。



たぶんそれほど景色は変わらないでしょうから、450年ほど前に家康たちが観た場所に重なる所もあるかもしれないので感無量です。




加太駅に到着。


しかし、家康たちにはまだ油断できない旅が続くのでしょう。
彦根市民にとっては元服前の井伊万千代(直政)と後の彦根藩家老である木俣守勝が初めて一緒に苦難を乗り越えた地であることにも興味が湧きます。

伊賀越えの最中に祠のお供物である強飯を見つけた家康一行はみなでそれを分けようとしますが、万千代は受け取らず、家康が皆で協力しようとする時に遠慮するような様子の万千代を叱責すると、「自分が斬り死したときに身体から強飯が出てきたならば、徳川の者は飢えてお供物まで手を出したと笑われる。死ぬ覚悟の自分には殿の恥となる物は必要ない」と宣言したとされています。

他の者は強飯を口にしたと言われていますので、強飯で飢えを凌いだ熟練の将の守勝は、年若い万千代をどう見たのか、知りたい気にもなりました。


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