
大高城を囲んだ二砦(丸根砦・鷲津砦)の一つ。
織田信長は、佐久間盛重に400の兵を与えて大高城を監視させます。桶狭間の戦いの前夜(5月18日)に松平元康は大高城に兵糧を入れて、19日の朝から1000の兵で丸根砦を攻めたのです。
佐久間盛重は、撤退して信長本隊に合流することを主張しますが、服部玄蕃がこれに反対し400の兵は砦を打って出て松平勢と戦ったのです。
元康は石川家成を先鋒に石川数正や酒井忠次・本多重次らを指揮して戦い、丸根砦は落ちたのです。
そののち、大高城の鵜殿長照と交代して元康は大高城に入り、そこで桶狭間の悲報に接したのでした。
丸根砦は、その名の通り丸い遺構でした。




頂上部分には、この戦いでの犠牲者の慰霊碑がありました。

所在地 名古屋市緑区大高町丸根
織田信長は、佐久間盛重に400の兵を与えて大高城を監視させます。桶狭間の戦いの前夜(5月18日)に松平元康は大高城に兵糧を入れて、19日の朝から1000の兵で丸根砦を攻めたのです。
佐久間盛重は、撤退して信長本隊に合流することを主張しますが、服部玄蕃がこれに反対し400の兵は砦を打って出て松平勢と戦ったのです。
元康は石川家成を先鋒に石川数正や酒井忠次・本多重次らを指揮して戦い、丸根砦は落ちたのです。
そののち、大高城の鵜殿長照と交代して元康は大高城に入り、そこで桶狭間の悲報に接したのでした。
丸根砦は、その名の通り丸い遺構でした。




頂上部分には、この戦いでの犠牲者の慰霊碑がありました。

所在地 名古屋市緑区大高町丸根