彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

若江城跡

2020年06月18日 | 史跡
若江の戦いの関連地と一緒に、若江で欠かせないのは若江城です。


南北朝時代に南朝方楠木正儀(楠木正成の三男)侵攻を抑えるために河内守護畠山基国が築城したとされています。
若江鏡神社に朝日が差すことを邪魔しないように神社の西側に城を築いたという話があるため、前回紹介しました若江鏡神社は南北朝時代には信仰厚い場所であったことがわかります。

応仁の乱で特に激しく戦ったのが畠山政長と義就で、両者は応仁の乱終結後は畿内各地で戦火を広げます。
文明15年(1483)夏、若江城は畠山政長の城の一つでしたが、畠山義就は若江城を水攻めにします。これが日本最初の戦術としての水攻めの最初にぬります。
若江城水攻めで勝利したのは義就で、以降は義就の軍事拠点となり、この地で亡くなったとも言われています。

その後も畠山両氏の戦いや細川氏など畿内に関わる勢力争いの舞台になりますが、三好長慶が畿内で勢力を広げると三好氏の拠点となりました。
長慶の死後、織田信長の上洛で弱体化した三好氏は信長の仲介で足利義昭の姉と三好義継の婚礼を行い信長の傘下に入りました。
しかし今度は義昭が信長と戦ったために、義継夫婦は信長に敵対することとなり、若江城に籠った末に夫婦で自害して果てたのです。
若江城は、河内三好氏終焉の地でもあるのです。

三好氏は、足利義昭の兄義輝を暗殺している為、義昭と姉にとって義継は兄の仇になります。そんな三好氏と足利の姫が運命を共にするとは予想もしなかった織田信長は、三好義継室の死の知らせに小さく嘆息したとも言われています。

そして、若江城は大坂城築城の材料として破城され、大坂夏の陣の時には城としては機能していませんでした。


最新の画像もっと見る