神戸城の支城として永禄年間に高岡山に築城されたのが高岡城です。
織田信長の伊勢侵攻に備えて、神戸具盛の家臣だった山路弾正が弟(正国、久之丞)と共に今の鈴鹿市や四日市市を見渡せる場所に籠ったのがこの地だったのです。
永禄10年(1567)、滝川一益を大将とした軍が攻めてきますか、麓の鈴鹿川と高岡山の地の利を活かして守りつつ、美濃三人衆と連絡をとりあって信長を包囲する策を立てたのです。
一益を引かせた信長は、翌年にもう一度伊勢に攻め入ります。
この時も高岡城は落ちませんでしたが、信孝が神戸具盛の養子に入ることで和睦し、具盛が隠居して日野城に幽閉されると高岡城は信孝の異父弟になる小島兵部が城主となります。
そして、信孝が羽柴秀吉に自害させられると廃城となったのです。
高岡山には神社があり、最初はこの神社から城跡に行けるのかと思ったのですが道がありませんでした。
神社と少しずれた場所に車一台がやっと通れるような道があり、対向車が来ないことを祈りながら慎重に山道を登ると小さな駐車場から城の入口があります。
ここが、高岡城の本丸にあたる場所のようで、織田軍の侵攻を睨んでいたであろう、今では平和な景色を楽しめる場所でした。
ここから、山を掻き分けながら調べると様々な遺構や6基の古墳があったそうですが、景色の方が目的だったために一呼吸してまた狭い道を行く覚悟を決めて山を降りました。
山路兄弟の後日談ですが、弾正は日野に幽閉された具盛を神戸城に戻すべく謀反を企てて自害させられます。
正国は柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いで加藤清正が討ち取った猛将山路将監として名を残します。
久之丞は小島兵部に仕えた後、信孝自害後に浪人し長尾一勝を名乗り福島正則に仕え、小田原の陣の韮山城攻めで傷を負いながらも奮闘し尾関正勝、大崎長行と共に「福島家三家老」と称されました、この三人は戦で身体に大きな傷を負った者として正則の自慢の家臣だったそうですから、一勝自身も戦で大きな傷を負いながらも武勇を誇った人物なのだと思います。