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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城総構え400年(7)

2021年05月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2022年は彦根城築城第二期工事が終了して400年の記念年。彦根城総構え400年であることから昨年より総構えに関わる話を記している。あるとき「昔の城下は職業ごとに集まった町ができていたと聞きますが、同じ職業が集まると不都合の方が多いのではないですか?」との質問を受けた。

 歴史的に当たり前と思っていたことが、現在の常識から外れていることもある。と、私が思い知らされた瞬間であり城下町に関わる大切な事項であるためこの機会に紹介してみたい。

 城下町において同じ職業の人々が集まり、彦根城下でも「鍛冶屋町」「桶町」「左官町」「八尾屋町」「魚屋町」などを見ることができる。この中で「鍛冶屋町」「左官町」などの職人が住まう地域は協力して大きな仕事を行うときに便利であるとも考えられるが、商人たちはどうであろうか? 例えば「魚屋町」と聞いて現在の感覚を重ねるならば何軒もの魚屋が店を並べてそれぞれに客を迎えるイメージではないだろうか。こうなると立地・値段・鮮度・珍しさなどを売りにして店同士で生き残りを賭けた激しい争いが起こすことになると想像してしまう。魚屋町は彦根城下に「上魚屋町」と「下魚屋町」があり、現在の彦根市本町二丁目(上魚屋町)と城町一丁目(下魚屋町)の辺りだった。この範囲で40軒近い魚屋があったとされているのだ。普通に考えるならばその40軒が城下町の方々に散った方が各店で繁盛すると思われる。なぜ一か所に集まっていたのだろうか? この答えには私たちの常識を壊す必要がある、それは江戸時代初期に店舗という考え方がなかったということである。

 「店」はもともと「見世」が語源であり、室町時代に大きく発展した市で筵などに商品を並べて見せて販売する形だった。市は八の付く日(八日市)四の付く日(四日市)など一か月に数日だけ開かれるだけであり商人は行商が基本的なスタイルだったのである。特定の場所に店舗を構えて日常的に商品の販売を行えるようになるのは18世紀初頭の元禄文化まで待たねばならない。それまでは商売をする人々が必要な物を持って声をかけながら歩き回っている。朝食の時刻に合わせるように納豆売りや魚売りが長屋近くを通り、夜になると落語でよく登場するような屋台のそばやうどん、江戸では日中に寿司屋や天ぷら屋も出ていたが彦根城下ではどんな屋台が出ていたのかいずれは調べてみたい課題でもある。

 魚屋町で店を構えて来客を待った訳ではなく、各地から仕入れた魚が行商によって城下町に広がって行くのである。彦根藩では魚市が行えるのは上下の魚屋町に限られていた。現在の感覚で考えるならば魚屋町という卸売市場に魚が集まりキッチンカーで調理販売されていたということになるのかもしれない。これが業種ごとに存在したのである。


旧魚屋町への案内石柱(彦根市本町二丁目)
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彦根城総構え400年(2)

2021年05月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大河ドラマには大きな功罪がある。通常では注目されない人物をも描くことで世の中に周知される功。その反面、ドラマに登場しなかったために重要性が失われる誤解を招く罪。近年では『麒麟がくる』が後者であり、『真田丸』は前者だった。
 平成29年(2017)の大河ドラマ『おんな城主直虎』も前者に属するドラマであり多くの人物が世の中で知られる存在となる。その代表は小野政次だったが、中野直之と奥山六左衛門も知名度が急上昇した。
 ドラマ以前に奥山六左衛門を知っていたのは熱心な彦根藩研究家か谷崎潤一郎作品の愛読者くらいであったと考えられるため、拙著『井伊家千年紀』の加筆の様になるが奥山家について掘り下げてみたい。
 奥山家は、井伊家から分かれた家であり、井伊家にとって重要な家臣の一家であったと考えられる。ただし彦根藩主となる井伊谷井伊家が常に遠江に広がる井伊領をまとめ続けていたと断定することはできないため、もしかすると奥山家の方が支配権を握っていた可能性も否定はできない。過小評価するとしても井伊谷より北西部の広大な領域を治めていた領主であり井伊谷井伊家も一目置いていた。井伊直虎の父・直盛が当主だった頃、奥山姓の家臣が数名記録されている。特に朝利(親秀とも)と孫一郎の名が知られる。二人の関係は分かっていないが一族であることは想像できる。朝利は今川義元から命を狙われていた井伊直親(亀乃丞)が信濃から帰国する際に娘を娶らせて直親の後ろ盾になった人物である。その他にも小野玄蕃(小野政次の弟説有)・中野直之・鈴木重時(井伊谷三人衆の一人)や後に彦根藩重臣となる西郷正友などに朝利の娘たちが嫁いでいて、朝利の妹は直虎の伯父・新野左馬助の正室でもある。このことからも奥山家の井伊家家中における閨閥の深さや地位の高さがうかがえる。
 孫一郎は桶狭間の戦いで直盛が討たれたときに直盛の遺言を井伊家に報じたとされているがその他の記録はなく、私自身は井伊直親の正当性を主張するための架空の人物ではないかと考えている。桶狭間での奥山一族の被害は大きく、奥山彦一朗・六郎次郎・彦五郎の名を見ることができる。このときに朝利の息子である朝宗も生まれたばかりの男児を残して討死。奥山家でも井伊家同様に家を支える当主を失っていたのだ。
 桶狭間の戦いの約半年後、朝利は小野政次に殺される。玄蕃(桶狭間で討死)の正室を奥山家から迎えているため、小野家にとっても朝利は大きな後ろ盾にもなる人物だった可能性もあるが、井伊家の中で大きすぎる交友関係が今川義元を失ったばかりの今川氏には脅威に見えたのかもしれない。朝利の死によって奥山家に残された当主はまだ生まれたばかりであり確実に力を失速させることとなる。そして実父の死から約二か月後に朝利の娘は井伊直親の嫡男・虎松を生んだのだった。

奥山氏居館跡(浜松市北区引佐町奥山)
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